見世物小屋の人達は現在私のやっている、三寸ひとつで商売するテキヤをコロビと呼んで、最も大きなものをサーカスとする仮設興行の世界と一線を引いている。
あまりなじみのない仮設興行という呼称は、日本仮設興行協同組合の略称で、設立が昭和三十二年となっている。
コロビと仮設興行はタフな緊張関係を保ちながら同じ高市(たかまち)の中で連綿と商売を続けて来た。たとえば最近いただいた名刺には、○○本家貮拾参代目となっていてその長い歴史を感じさせる。当然江戸時代から明治維新をくぐり抜け、民主主義をほっかむりして業界の人々は生きて来たのだが、すべて平等と教えられた人の多い今の時代は、こういった人々の歴史を、あわ良くば消してしまおうとさえしているようだ。
それにしても仮設興行とは良く名乗ったもので、見世物という言葉を背後に隠したとたん、仮設が一人歩きを始めたようで、たとえば国家の年金という制度もまた仮設であったのかと、ようやく平等の信奉者達が感付き始め、見世物は復権のきざしさえ見せ始めたようだ。
私の親分西村太吉は、見世物屋の祖先は忍者だったと言う。理由も文献もない。仮の親、西村宗吉という先代にそう聞いたと言う。
数年前、一家の新年会は常盤ハワイアンセンターだった。ここで京劇を見た。原色金ピカの獅子舞の動きはステージの天井を打つ程高くうねり、派手な化粧の芸人の、常人にない動きを見た。
両手を、人形を操るように別個に動かし変装したチンドン屋は、オヤジがかつて短い期間身を寄せた世界であり、芝居も空中ブランコもストリップも、忍者の記憶はオヤジの中にまだ至るところに生きているようだ。
そのオヤジはこのところタイに凝っている。、バンコクのトップレスバーやプーケットのオカマショー、貧しい屋台で食い物を売る人達。金、銀、エメラルド、ルビーの仏像、いずれにしても体、体の動き、そういったものを人に見せて生きている人達が好きなのだ。
常宿とするバンコクの、アラブ人の多いホテルの地下のバーには女が大勢たむろしていて、ここでビールを舐めるのもいい。
なるほど肉体は金になる。そこで、昭和二十二年〜三十年頃、なにもない戦後の一時期、見世物は全盛を極めた。現在解っているのは、どうやら五十を超える見世物小屋が、日本全国、敗戦前にはサハリンにまでその足を伸ばしていたことだ。オヤジはその全盛期を生きた、残り少ない証人の一人だが、これだけ多くの見世物小屋が出現したのは、日本が貧乏だったからだと考えられがちだ。しかし、これは全く違う。