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仏壇等の先祖の供養が行われるのは、このトリワケが済んだ後ということになるが、先祖の霊の鎮魂に際しても、山ミサキ・川ミサキをはじめとする眷属祭祀が不可欠であり、本作法にもいざなぎ流諸祈祷の多くに見られる特色を認めることができるのである。

 

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小松豊孝太夫の仏のトリワケ作法

 

カルヤ儀礼―転生の啓示

物部村では、人が亡くなってから程なくして、禽獣・昆虫等の小動物となって転生すると信仰されていたが、いかなる動物に生まれ変わったかを知るために「カルヤ」なる、以下のごとき儀礼が行われていた。

人が亡くなり、葬式を行った晩、死者が生前に寝所としていた部屋に箕を置き、この上に水を少し張った金盥(かなだらい)を置き、さらにこの金盥の中に、朱塗りの膳を置く。この膳の上には、囲炉裏などから採った灰をごく薄く敷き、ここに手が触れられないように、木の棧を二本渡し置いて、膳を覆うようにしてハイバラをかぶせておく。部屋の戸は少しだけ開けておくが、果して翌日の朝、膳の灰の上に禽獣が残していった跡が残るという。蝶・蜻蛉などが羽ばたいた跡、鳥の足跡、蛇の這った跡、等がよく見られる例で、これらの虫・鳥・蛇等に転成したことを示しているのだという。

野辺送りの行列には弓を手にする役が随行するが、これは死者が転生した蝶・蜻蛉・小鳥などが、鳥や燕など他の動物に捕食されないよう守護するためなのだと説明される。また、特に家族の者は、転成したとされる昆虫・禽獣類を殺生しないように気をつけるという。

 

無縁仏の祟り

以上は、大正十二年生、現在七十九歳のいざなぎ流太夫小松豊孝(とよのり)氏の教示に基づくものであるが、氏は高校を卒業して以来、伐木を主たる生計としていた。

昭和二十九年、高知営林局大栃営林署、別府の行者事業所木材出材責任者として在職していた三十一才のころ、特に険しい山でないにもかかわらず、伐木手・運集材手が半月の間に四、五人もの重傷者が出るといった事態に見舞われた。そこで、長老格の太夫に相談し、米占(ふまうらな)いをして貰ったところ、次のようなことが判明した。

この山内には、猟師が捕って鎮めてあった熊の霊と、行き倒れで死んだまま供養されていない者の霊がいる。行き倒れの霊は、別府(べふ)の住人で、それほど昔ではないころに、徳島県方面へ山を越えて出稼ぎに行く途次、この山内で持病の発作がおき、休養していたところ、提灯の火が衣に燃え移って焼け死んでしまった者で、この霊の供養が行われていないがゆえに、魂が漂って不幸な事態に見舞われているのだ、というのである。

その結果、師匠の中尾長次と父小松達吾太夫とが、熊鎮めのための西山(にしやま)法と山の神祭りを行った。祭りは、中尾長次が熊鎮めと死霊の鎮めを、父達吾が山の神祭りを分担して行うこととなったが、太夫としては、まだ駆け出しであった豊孝氏はこれを補佐した。

この法が功を奏して、その後、当山において大事故に見舞われることはなく十年程で終山したという。(松尾恒一「小松豊孝太夫の足跡を辿って―いざなぎ流御祈祷の戦後の一側面―」『大倉山論集』四十六輯、平成十二年九月、参照)

人に災いをなす山ミサキ・川ミサキとは、死んだ古狸や古狐などの霊がなったものといわれるが、供養されない人の霊も山ミサキ・川ミサキとともに山中に棲息し、同様に人に災難をもたらした。物部の人々に恵みを与えた深い山々は、同時に魔性・魔群の棲息する畏怖すべき世界でもあったのである。

…<国学院大学助教授>

 

 

 

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