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谷川…精霊とかスピリット、悪霊、小さい霊が祟るということは日本の神の原初的形態だと思います。ミサキとかは小さい悪霊ですが、人間になって、祟りをする。施餓鬼もそうです。迷える霊です。

 

山折…餓鬼というのは人間のアラミタマ・イメージです。亡霊を視覚したものといっていい。基本は人間は死んで霊になるのだけれども、それに二種類があるということですね。一つはニギミタマ、鎮魂の供養を受けて和らいだタマです。もう一つが供養されないままで祟りをなす霊、それがアラミタマ。荒精霊であって、その年に死んだ人の霊はだいたいこのアラミタマなんだけど、それで盆などの季節に鎮魂の供養、すなわち施餓鬼ということをやる。餓鬼に食を施す。そのような行為を探っていくと、人間の怨念、恨みに帰着するようです。日本人の信仰の一番根幹にあるものは、死んだ人間の怨念、すなわち祟りをどう処理するかということでした。よく神仏信仰というんですが、その根本にあるのは、そうした人信仰なんですね。人に対する信仰です。人が死んで神になる。仏教が入って、こんどは人が死ぬと仏になる。つまり人イコール神イコール仏という公式を成り立たせている、その奥のところに魂信仰があると漠然と思っているのです。

 

谷川…人間に悪さをする人間以外の霊がいます。人間でも成仏できない迷える霊が人間に悪さをする。その境があまりないような気がする。人間以外の迷える霊と人間の迷える霊と境目がない。施餓鬼も御馳走を出してお引取り願う。宮古島の狩俣のお祭りでも悪霊をもてなすために祭場の周りに小さな粥を置き、それを食べて祭場に入らないようにお帰りなさいとやるんです。施餓鬼の形態のような気がするんです。人間だけでなく、人間以外の霊に対してもなだめすかしながらお引取りを願う。祝詞でも根の国からやってくる悪霊にお引取り願う内容の言葉があります。根の国の悪霊は人間なのか人間以外の自然な悪霊なのか分からないような気がします。

 

山折…鬼というのは人間のようでもあるし、動物のようでもある、その中間に存在するありとあらゆるもの、得体の知れないもの全部が鬼の世界に入るような気がします。

 

谷川…日本人は迷える霊とか、魂というものに対してなだめすかそうとする習俗やら行事が多いんじゃないかと思います。

 

山折…日本人は魂に対して敏感なんだろうと思います。

 

親鸞と霊の存在

 

谷川…仏教以前も仏教が伝播してからも日本人の古い世界観なり信仰が確固としてあるとすれば、親鸞は神祗不拝ということをいっているが、正月とかお盆を親鸞はどういうふうに迎えたのかなという気がするんです。それとも親鸞の信仰は古来の信仰とは縁のないものだと考えられていたかです。

 

山折…親鸞の「和讃」とか「教行信証」という著作を見ますと、天神地祗を拝むなとはいっているんです。しかしその神祗不拝という考え方は、神祗の存在を否定しているのではない。そのものの存在を認めているから、拝むな、といっているのです。ここを誤解したのが近代の親鸞解釈ではないかと思うのです。「教行信証」のなかでも、念仏の人を善神鬼神が守ってくれるといっています。天神地祗がもしも全く存在してなければ、守ってくれるなんて言わないわけです。民衆の立場はそうじゃないでしょうか。しかしその天神地祗を自分は拝まない、さらにできるならあなたがたも拝まないようにしてくださいよ、と親鸞はいっている。しかしそうではあってもお盆の季節とかお祭りの季節になると、念仏の人もそして親鸞も善神鬼神の気配を感じながら生きていたと思いますね。思想的にはそれを否定するけれども、生活実感としてはその気配を感じている。それが人間というものではないでしょうか。親鸞の有名な「和讃」に、「聖徳太子和讃」というのがあります。その中に「聖徳太子の魂」ということがいわれています。

 

 

 

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