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どんな名人が舞台に出てきても、どんな華やかな衣装を着て演じても、どうも退屈なんです。なぜ退屈するのかと考えましたらね、現代における能舞台では、先ほど申し上げた盆踊りにおけるような魂をもう実感できない。現代人の問題なのか、能という現代劇の問題なのか、演ずる人の意識の問題なのか、いろいろ要素はあると思います。世阿彌の時代のかつての能楽は、演ずる人も見ている人も、そこに亡霊が、怨霊が舞台に舞い下りてきている、漂っている、―そのことを実感できたんだと思うのです。亡霊の姿を実際に幻視することができたんだろうと思います。それはもう現代人の我々にはできなくなっている、それだから退屈してしまう。阿南町の盆踊りを見たときは、ずい分長い時間見ていて退屈しなかった。顔を隠して単調な踊りを繰り返しているだけなのに、その真っ暗闇の中でチロチロ燃える火の中に、魂を実感できたのです。

 

谷川…単調や素朴さは盆踊りの最初の段階にあった。新野の踊りでも扇一つで払いながら会釈して踊っていく姿は大変古風でいい感じなんですね。この頃、人気の高い盆踊りに越中の風の盆がありますね。私は行ったことがないのですが、胡弓が出てきたり、覆面の女や網笠を被った女、長襦袢の女が登場します。なんとなく感覚的に嫌なんです。聞くところによるともともと遊郭の踊りだったらしいですね。そう見ると、男も女も品を作って踊るというのは、昔の武士が顔を隠して遊郭に通っているような雰囲気を感じます。

 

山折…あの哀愁の調べが、何となく新内のような感じですね。

 

谷川…昔の人は、ここで話をしていても襖の向こうにもう一間あったんです。こちらが現世で襖を開けるとむこうの部屋は他界だったと思います。話している間も襖越しに誰か聞いている人がいるかもしれないという意識が、我々のほうにあったのではないか。能のときにね、幻視をすることができなくなった、といわれましたが、昔の人は生と死という二元的な世界が確固としてあるということが無意識のうちに信じられていた。そういう時代がずーっと続いてきた。だから能が成立したと思います。

 

山折…能は死者の存在、すなわち死者の霊の存在を実感するところに成り立つ芸能なのに、近世以降になると、見る芸能に代わっていくわけです。ところが魂は見ようと思っても見ることができません。結局、感じる世界から見る世界へと移り変わることによって、盆踊りも変質していく。そういう所にかかわりがあるのではないかと思います。

 

谷川…新作の能は、次の世界が出てこないから現世で始まり現世で終える。若さと老いというのがコントラストになるだけではだめなんです。次の世界が要る。次の世界とは他界のことです。

 

あの世とこの世をさまよう魂

 

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村境まで切籠燈籠を送る村人(撮影・木下好枝)

 

山折…永当にそうですね。柳田國男が生前よく言っていたということなのですが、もし自分が死んだ場合、霊魂がどこをさまよっているか自分で分かると。四十九日までどこらあたりに漂っているかというと、大体、家の天井あたりだそうです。ところが、四十九日を過ぎると、どこに行くか分からない。地獄に行くか極楽に行くか分からないということかもしれません。けれども柳田さんの考えからすると、死んだ人の魂は個性を失ってだんだん大きな霊体に吸収されていくんだ、という。霊体というのは多くの先祖の魂の集合体のようなものですね。それで結局は分からなくなるといういい方をされたんでしょう。四十九日まではどこをさまよっているか分かるという感じ方は、初めは柳田さんに固有の感覚かと思っていたんですが、あの時代までの人は大なり小なりそういう実感を持つことができていたんでしょうね。

 

 

 

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