燈籠を地べたにおいて回りをまた囲んで歌を歌うのです。それが身にしみます。そして、老人が空砲を撃ってこれでお別れだと終わるのです。空砲が禁止されたので今は花火です。…。
山折…子供たちはなぜそういうことをやるのか知らないのでしょうね。
谷川…踊り子がめいめい扇一つを持って踊る。素朴な盆踊りです。切籠燈籠は華やかでして、これを作る人は村に二人いるそうです。大体二万五千円くらいするそうです。
山折…一人亡くなると一個出しますから。
谷川…切子の数をみますと一年に随分亡くなるものですね。
山折…私が見たのは違う場所です。たしか阿南町だったと思うのですが、夕暮れがとっぷりくれた頃でした。村の外れに小高い丘がありまして、その丘の上に二、三十人の男女が、深い頬かむりをして集まる。櫓も建てませんし、太鼓や鉦、三味線も一切ない。歌だけを歌う。ゆっくり輪を作って回るだけでした。輪の真中に笹竹を立てその先に火を付ける。それがチロチロ燃えているだけです。じつに単調なものでした。ところが、亡くなった人の魂が、そのチロチロ燃えている竹の先にスーッと下りてきそうな雰囲気で胸をつかれる。まだ、その周辺をさまよっているという感じなんですね。踊っている人たちが顔を隠して、浴衣を着てゆっくりと踊っていきますから、亡者(亡くなった人)と送る人との関係がしんみり交わっているという感じでした。これこそ盆踊りの原型ではないかと思ったほどです。見ていて、死んだ人の魂が実感できました。
谷川…廃仏毀釈が激しかった隠岐の島では、明治になって仏式で葬式をやらないで神式の葬式をやる島がありまして、柳田國男が隠岐でその話を聞き、更にその話を石見の民俗学者牛尾三千夫さんに話した。牛尾さんは、『美しき村』という自分の本の中で柳田から聞いた話を書いている。
それによると、人が亡くなると、広場に青竹をたてて遺族がその周りを廻る。そのとき神楽を奏する。あるところまでくると青竹をナタで切るのです。青竹は切れるのですがそのまま立っている。そのとき梢の部分にさっと火が付く。それを遺族は目を開けて見ることはこわくてできない。その瞬間が生者と死者のお別れの場面なのです。
明治の初めまでそういう神葬が行われていたそうです。山折さんがさきほどおっしゃられたお盆行事と似ていますね。それは、死者と生者の別れる儀礼の原型ではないかと思います。生と死は日本の場合は錯綜していまして、生きているものも死んでいたり、死んでいるものも生きていたりする感じがするのです。日本人の世界観の中で死と生の中心部と周辺部とがお互い協力し合っているのが分かります。
山折…最近、薪能があちこちで興行されるようになりました。それで能を見る機会が多くなったのですが、でも私は能を見ていていつも退屈するのです。三十分が限度ですね。