日本各地の山村の典形的な集落である。祖霊や新盆供養の盆踊りにもそれが見られる。
江戸時代の寛保二年(一七四二)宮下家の者が集落に持ち込んだとの伝承があるが、南無阿弥陀仏と記した幟を押し立て、金、銀の色紙で飾った切子燈籠、竹竿の先を切った割竹に色紙のヤナギや花などを飾りとする、ササラ、ヒッチキを手にした二人が一組となる。「サー、ヨーイ、ソーリャ」の掛声と共に、太鼓打ちが大きく跳ねると、ササラ、ヒッチキが周りで踊り跳ね、鉦、奴も太鼓の周りを囃し立てるように激しく体を跳躍させる。太鼓打ちも様々な動きを見せる。ササラ、ヒッチキ役も、その動きが激しく、昔は若者ならではの敏しょうな身のこなしと体力、習練を要し、それが見る者を感動させた。
習熟を要する技と様式美が、浮世から彼岸へと、唱和する念仏と共に人々の心を、まだ見ぬ彼岸への橋と想像させたのである。
念仏供養ながら、神仏習合の時代は氏神社の前で踊ることに何のわだかまりもなかった。社前で「神の前の庭ほめ和讃」を歌う。
東西静まれ お静まれ
静めて小歌を出しましょう
我らが村の総氏子
丸山様へと皆よりて
お鳥居はるかに眺むれば
黄金の鳥居で先ず見事
次に一行は行列を組んで宮下家の庭で「庄屋の前の庭ほめ」を歌う。