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「聖地とは移動の記録である。聖地とは人々の移動をひとつの場所に封じこめたものである。」<植島啓司『聖地の想像力』>

中世期を中心に長瀧・石徹白を核とする美濃馬場は、白山修験道の山麓信仰村として「上り千人下り千人宿の千人」の夥しい参詣者を集めた。白山禅定(ぜんじょう)道は、途方もなくインシンを極めた。「御師(おし)」といわれる布教者が「霞場(別称旦那場)を廻って、護符・牛王札・薬草・白山絵図などを配布し、信者をふやした。東海地方はいうまでもなく信濃・甲斐・相模・武蔵・江戸まで範囲を広めたといわれる。そして信者たちが、白山へ白山へと美濃市の佐ヶ坂というところへたどりつくと、もうそこは「御壇内」といわれた。郡上地方の辺り一帯が聖地であった。山も川も―。

しかし、白山への道を往来したのは信者のみではなかった。修験者、遊行僧、放下僧など…。かれらは、伊勢など全国各地の芸能を伝え、流入の役割をはたした。

さらに、古代社会における日本海沿岸や北陸地方は、日本海ルートを通って大陸の外来信仰、たとえば「韓神」と呼ばれる民間宗教をもたらす。石徹白に水源を持つ九頭龍(くずりゅう)川流域には渡来系の人々が定着居住していた。

一方、郡内各地で現在も踊られている郡上踊りに、「ワジマ」とか「トヤマ」と呼称されるものがある。大和(やまと)町「ヨイトソリヤトヤマ」明宝村「寒水ワジマ」またズバリ「能登ワジマ」、和良村の「トヤマ」は祭事の後に必ず踊るものとされ、特に一般の盆踊りとは特別扱いをされている。

なお、これらの踊りは総じて、テンポが早くリズミカルである。また、スピーディともいっていいそれらは、石徹白の「草刈節(くさかりぶし)」、庄白川の「古大尽(こだいじん)」、五箇山の「こきりこ」に共通している。逆にいうと、能登半島に上陸した渡来のものが輪島から始発、越中五箇山、飛騨庄白川(ひだしょうしらかわ)を経て石徹白や奥美濃に移入、郡上各地にトヤマ・ワジマの名を冠した踊りとして、痕跡を残した。

もう一つ北陸系の流れをくむものは、「春駒(はるこま)」である。戦後改称されたが、もとの名は「ヤキサバ」であった。北陸の鯖街道のヤキサバ売りは、白鳥町の油坂(あぶらさか)峠から郡上に入った。その名残りの「春駒」、これも非常にテンポが早い。

かつて、谷川健一先生は、立光学舎主催のシンポジウムで「郡上は、日本海文化と太平洋文化の結節点」といわれた。これらのことは、その立証の一つとなるように思われる。

白山信仰「延年」を源流として、さまざまなものを複合の上郡上踊りは成立した。

十種に及ぶ種類の多さも、そこに起因している、他に冠絶している。

平成二年、アメリカはロサンゼルスのフェスティバルに招待された。始って以来といわれる大成功だった。舞踊学専門のジュディミトマ女史によって“踊りの種類やリズムが豊富で、国際感覚に溢れている”と賞讃され、特に「春駒」になると、踊りの輪は一層大きくなり、盛り上りを見せたという。

昭和五十五年写真家藤本四八著「白山信仰と芸能」(朝日新聞社)が発刊された。取材時に先生がしきりに歎かれた言葉は“美濃側には研究書が非常に少ない”であった。そして、先生はご自身での立派な論考を、その大著に付しておられる。信仰者の立場から撮られた数々の写真は、清らかで美しい。

が、現在では「白山文化博物館」という研究センターが、長瀧神社に隣りして建てられている。白山の気高さをデザイン化した建物で、郷土史家としてすぐれてパイオニア的存在の白石博男氏館長が、常時責に当る。また、本年「美濃馬場における白山信仰」(四七四頁)が気鋭の史家高橋教雄氏によって書かれ、八幡町が発行した。白山信仰の根幹を細微に分析、しかも随所に創見があり、白山信仰エンサイクロペディアの観がある。

さらにもう一人上村俊邦氏という研究家が現われた。「石徹白から別山への道」「白山への道」「白山の三馬場禅定道」「白山修験の行者達」を次々に発刊、本年には「白山信仰資料集」まで出刊。いずれも自費出版という壮挙である。氏は、実は石徹白最後の御師の曾孫。三馬場のみならず全国の修験道を踏破の上での調査研究の集大成である。

北陸側にも見られないであろう立派な研究センターの設立に加えて、三人の研究家の勢揃い。

魂鎮めのキリコは、今やこのように高々と奥美濃の空に掲げられたというべきか。

…<郷土誌編集>

 

 

 

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