日本財団 図書館


奥美濃郡上地方は、その奥山に今もなお気高い容姿の白山(はくさん)がそびえる。山麓ほど近くに人口九千の白鳥(しろとり)町がある。その町の北辺に鎮座するのが白山信仰で名高い長瀧(ながたき)白山神社と石徹白(いとしろ)白山中居(ちゅうきょ)神社。(元福井県)

泰澄(たいちょう)によって開創されたという白山信仰は、加賀、越前、美濃という三馬場(登り口)を開き、美濃馬場では白鳥の二神社が基地となる。

長瀧白山神社は、神仏習合によって白山長瀧寺とも呼ばれる。盛時には神殿仏閣三十六宇全山衆徒三百六十坊と伝えられ、明治に焼失したが再建の大講堂は、今も中世の遺構を残す。あまたの寺宝の中には、戦後古美術界を騒然とさせた「正和(しょうわ)の壷」がある。

有名な「延年(えんねん)の舞」は、例年一月六日に行われる主行事。きまって降雪を見る。この「延年」を存続するのは東北毛越(もうつ)寺、日光輪王(りんのう)寺、広島厳島(いつくしま)神社のみであり、当時の国内で最もレベルの高い芸能が、奥美濃の地にもよくも伝え残ったものというほかない。

白山の修験道は、この「延年(えんねん)」のほかにも数々の芸能文化を生んでいる。三河地方の花祭り「白山(シラヤマ)行事」、能郷白山(のうごうはくさん)の「猿楽能、越前糸崎寺「仏の舞」また立山「布橋大潅頂(ぬのはしだいかんぢょう)」も白山伝来という。熊野・大峰・出羽などの修験道はこのような芸能を持たなかった。

美濃馬場のもう一つの基地は、石徹白である。石徹白は「神の村」といわれ、住民のすべてが白山中居神社の社家・社人。士族同様苗字帯刀を許された。江戸時代には、将軍の代参者が毎年参詣にやって来た。

宮本常一氏は、この村に早く着目され、戦前昭和十二年と十七年の二度入村されている。その著書「越前石徹白民俗誌」(昭和二十一年・刀江書院)の序文で“徳川時代にも大名領となったことがなく、村の組織なども中世的なものが多分に見られ…”」と入村動機を述べられている。

文中、郡上踊りに触れた次の記述がある。「十六日には長瀧にいって長瀧寺の講堂で踊った。白山を誉めたショウガ(唱歌)をおろした。…そしてバショウというおとなしい踊りを踊るのである。」

石徹白から山麓の長瀧まではかなりの距離がある。檜峠という険しい箇所もある。徒歩で三時間以上の山道であり、戦前のことでバスも無く宮本常一氏は、そこをどうやって通られたのであろうか。それから、地元の人々に交って、古式の郡上踊りを踊られたのである。宮本常一氏のこの文章に出てくるショウガとバショウの語は、「原郡上踊り」の真髄に触れている。

ショウガとは、神への誉め言葉、神迎えをも意味する。バショウは、神の降臨する場所であり、饗応としての踊りの場所、社寺の拝殿や講堂の意、ショウガをおろすとは、白山の神々を下(おろ)す(迎える)儀式を意味する。おとなしい踊りとは、素朴な足踏みの輪踊りのことらしい。

長瀧神社宮司の若宮家古文書「修正延年次第」に山伏から修徒になる儀式が出ており、その主所作は足踏みであり、それは「延年」の主所作でもあった。短い章節ながら宮本氏のこのレポートは郡上踊りの発生に基づく古態を示している。バショウは、戦後しばらく郡内各地で踊られていたが、昭和四十年代に絶えた。

 

016-1.gif

 

016-2.gif

上・装飾的なキリコ燈籠

下・郡上踊り。代表的な「かわさき」

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION