郡上踊り[魂鎮めのことなど]…谷澤幸男
毎夏七月八月九月と三カ月にもわたって続けられる郡上踊りは、本年も九月上旬に踊り納めの式を行い終止符を打った。そしてその余韻残れる初秋九月二十二日、「昔おどり伝承の夕べ」が開かれた。
会場は、城山山麓の安養寺(あんようじ)境内、この寺は一向一揆の際に重要な役割をはたしたという名刹である。私ども発行の<郷土文化誌郡上>主催の「郡上八幡大寄席」は、ここの本堂をお借りして毎年開き、ことしで二十五年目。そういう寺でもある。「昔おどり」開催については、その落語会司会者永六輔氏の示唆があったことを付言しておきたい。また民謡評論家竹内勉氏の助言も仰いだ。
人口一万八千の郡上八幡という奥美濃山峡の町は、何の基幹産業を持たない。それで、貧しく小さな町が、戦後生きんがためにとられた方策が、郡上踊りの観光化であった。そしてその努力は功を奏し、結果日本三大踊りの一つに列せられるまでになった。昭和四十八年には国の選択芸能無形文化財指定という栄光も得た。毎年のシーズンには、東海地方いや全国から客が集まり、昼間からすでに人が溢れる町にもなった。だが、その観光郡上踊りは、肝心の地元民をはじき出してしまった。
ところで、郡上踊りは昭和二十年八月十五日のあの終戦の日も火を消すことがなかった。日本中が悲歎の極みにあったその時にも、踊りを続けていた。その時の証言が残る。
「大東亜戦争になってからは、盆踊りみたいなもんはあんまり踊ってはいかんということになったんや。ほうやが、郡上では警察に頼みにいって、一晩だけは踊らせてもらうようにした。それはどういうことかというと、戦死しないた人を慰める。戦死者の慰霊ということなんや。願蓮寺の境内に戦死しないた人の写真を並べてお経を上げてから踊ったもんや。」[佐藤孝之助氏談―当時八幡町助役―座談会郡上踊(郷土文化誌郡上第5号所載)]