谷川先生は、民俗学の立場から新野の盆踊りについて、以前に書かれた文章を参考にしながら話された。聞く人々にとって自分たちの踊りについての話だけに、熱心に聞き入っていた。
続いて岡野弘彦先生(国学院大学学長)が、折口信夫と新野について話された。車の到着が遅れたため、予定時間が短くなり先生にご迷惑をかけたが、それでも旧知の関勝夫氏との飛び入り会話が入るなどして、和やかに終わることができた。
その後徳之島の治井秋喜氏(徳之島民謡研究会会長)による三味線と歌を聞いた。これについて同じ徳之島郷土研究会会長の松山光秀氏から、面白く解説を聞くことができた。
滅多に聞けない三味線と民謡であり、特に本場そのままの歌と、私たちに分かるように歌い分けられたことは大変有り難かった。そして最後に治井氏による三味線と歌に合わせて、全員が踊ったことは大きな収穫であり感激であった。
私は一旦旅館に戻り仮眠した後、三時頃起き出て踊りの輪に仲間入りし、朝までにどうにか五種類踊る事ができた。青の会の同人たちは、分散してあちこちで踊りの輪に入っていた。特に谷川先生は背が高く頭一つ出ているのですぐ分かる。見る人より踊る人が多い踊りであった。そして時間が忽ち過ぎていった。
夜が明けると、最後の踊りである「能登」が始まる。その激しさはそれまでの気品に満ちた優雅な踊りと違い、鬱憤を晴らすかのように、動きが激しく大声で歌い踊る。
能登のいわれを聞いたが、元唄のようにサバ売りが来たことと、その頃はサバが貴重であり、待ち焦がれた思いからこの歌になったのではないかとのことであった。
六時頃になると役員たちが櫓の下に祀られている市神様の前に集まり神事が始まる。この時櫓の回りの切子燈籠を外し、それぞれ二メートル程の竹に括りつけ路上に並べる。
市神様の前には人参・ごぼう・大根・果物・海草・鯖・鰯を盛った膳を供え、音頭取りが歌う様な節回しで和讃が唱えられる。この儀式が終わると新盆に当たる家の人たち(孫など若い人が多い)が、めいめいの切子燈籠を担いで行列を作る。
そして幣吊を付けた榊の枝を持った男を先頭に、町の外れにある太子堂へ行き、そこでも和讃が唱えられる。参考までに市神様と太子堂で唱えられる和讃の末尾を挙げてみる。
市神様の和讃末尾
葦毛の駒に手綱つけ 弥陀の浄土へはよ急げ 末を申さばまだ長い おいとま申していざ帰る なんまいだんぼ なんまいだんぼ
太子堂の和讃末尾
ゆうめす船が沖へ出る 末を申さばまだまだ長い 来年七月はよおいで おいとま申していざかえる なんまいだんぼ なんまいだんぼ
行者が一節歌うと、人々はそれを唱和するという繰り返しである。亡くなった家の祖霊であり、また自然界の精霊に対し、別れを告げる歌である。