これがいわゆる祭式舞踊で、こうなると、二間四方ぐらいのアシャゲでは狭苦しくなって、勢い周囲の広場(ミャー)に溢れ出し、次第に円舞の輪を拡大しながら土俵の周囲を踊ったのが、八月踊りの起こりである。八月踊りの最初に踊る序曲を、《アラシャゲ》といっているが、これは初め《アシャゲ踊り》といったのを、後に語調を整えるために《アラシャゲ》といったのではないかと思われる。何れにしてもアシャゲにおける祭式舞踊から由来していることを示すものである。」
とその発生の由来を考察しています。
昇曙夢さんが記すように、八月踊りは、奄美の沖縄王朝従属時代に、女神官である《ノロ》たちが踊った、宗教的意義をもつ荘重な祭式舞踊から、伝統してきたものである事が伺い知れるのです。
またさらに昇曙夢さんは同書に、
「八月踊りには色々の種類が有って、おそらく四、五十種に及ぶであろう。歌詞の多くは三味線歌と共通であるが、曲は全然違う。概して三味線歌が悲哀を基調として詠嘆的な沈んだメロディーであるのに対して、八月踊りの曲調は概して快活で、人々の興味をそそり、心を浮き立たせるような迫力と魅力とを持っている。だから誰でもこの雰囲気に入って、一旦興が載って来ると、踊り出さずにはいられないのである。多数の村人が広場に集まって、階級を超越し、貧富の懸隔を忘れて、精神的に結合し、同じ一つの魂、一つの気分に融け込んで、楽しくなごやかな明るい気持ちで、誰でもちょっとの稽古で自由に踊ることが出来るのは、八月踊りをおいて外にはない。ここらが郷土芸術として、民衆舞踊として、また歓びに躍動する心の自然の表現としての八月踊りの特質であろう。
この点から言っても、八月踊りはそのまま何等の工夫も要せずに、農村娯楽として最も理想的な芸能である。三味線楽は感傷と詠嘆とを基調とした四畳半式の室内楽であって、大勢が集まって共に楽しむのには余りに小夜曲的であるのに対して、八月踊りは野外の集団舞踊として、興さえ乗れば何時でも亦幾百人幾千人でも円舞の列に加わることの出来る大衆的特質を持っている。これをもっと芸術的に整頓し、組織化し、洗練していったら、民衆芸術として恐らく世界的名声を博するものであろう。僅かに二、三の曲を何時までも繰り返す単調な本土の盆踊りなど比較にもならないほどの優れた立派な民俗舞踊である」などと、三味線歌と比較して絶賛しています。
ともかく八月踊りは、奄美だけが持つ固有な円舞であり、チヂンと島唄と踊りとの三位一体化した野外の集団舞踊であり、素朴ながらも全体に波打つ壮大なうねりは、何千年も島を貫く時の流れさえも感じさせるものが有ります。
また緩いリズムで始まり最後には速いリズムで終わるこの八月踊りに、私たちは大海洋の大きなうねりから、やがては岩礁に打ち寄せ砕け散る激浪までも感じさせられてしまうのです。
そんな南島情緒豊かな八月踊りのシーズンが過ぎて、祝祭日の最後を飾るドンガの日が終わる頃には、陰暦の九月も過ぎて、季節風の吹きすさぶ太陽暦の十一月になってしまいます。まさに奄美の秋は季節風の吹き染めのミイニシ(新北風)と、八月踊りと共に訪れ去っていく、といえます。
九月下旬頃から八月踊りのチヂンの音と、ミイニシの爽やかに涼しい北風が海からそよぎ始めると、秋の訪れを感じますし、十一月に入って、ナアニシ(中北風)に変わってきますと、海は時化てきて肌寒さが感じられ、冬の訪れを知らされるのです。そして師走に入り一、二月の真冬になりますと、北風は吹き荒れてマニシ(真北風)やフウニシ(大北風)に変わり、そして三月に入りますと、さすがの季節風も衰弱して、優しく静にそよぐワカレニシ(別れ北風)となり、奄美の冬は終わるのです。