人家押し入り禁止もそんな状態のためではなかろうか。
『那覇横目条目』は盆に行われる似せ念仏踊りで絹帯びが使用されているので禁止する。また、芭蕉や木綿布であっても絵書模様の衣裳は禁止するという意味である。
他にも、那覇の辻や仲島の遊郭街で念仏踊りを大和奉行が観覧するため、桟敷や舞台がつくられ見物しているが、那覇四町の女性たちが見物することを禁止する記事もある。
八重山でも士族の女性たちはアンガマ踊りに行くことは厳しく禁止されている。
久米島では「七月文中(盆)百姓等男女打ち込おすたいく躍仕家内毎忌係り之方も無構押而罷出所中之故障ニ相成剰終夜男女致混雑節犠之妨不宜候間向後右躰之拳動無之様堅締方可申渡事」とある。
臼太鼓(ウスデーク)の盆踊りで男女が混雑しているので規制するとの内容である。
臼太鼓踊りは九州地方に広く踊られている太鼓おどりである。
那覇や首里の似せ念仏や文踊(盆踊)の影響を受け、八重山でも念仏歌や「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら太鼓や鉦に合わせ、集団で踊る念仏踊りが始まったのであろう。
大浜集落の盆の翌日に行われるイタツキバラの行事は、村に残る悪霊や無縁仏を払うといい、音頭取りが歌う「七月念仏節」にあわせて、藁の鉢巻きをした老若男女が、ヒヤルガヨイサーという囃子をしながら単調な手振りを繰り返す。
宮良集落では神司や古老、公民館役員たちが、トニムトゥ(宗家)等で歌三味線による七月念仏節にあわせて円陣舞踊を踊った後、それぞれが舞踊を披露する。
この踊りには翁、媼が登場しない。
翁、媼が登場せず庭先で円陣で踊られるのを百姓のアンガマという。
翁、媼が登場し『無蔵念仏節』をうたい屋内ででのアンガ踊りを士族のアンガマという。
円陣舞踊はなく一、二人で踊られる格調高い踊りで、その踊りが成立するのは十九世紀から二十世紀初頭であり、士族のアンガマ踊りが成立するのもその年代であろう。
現在、ウシュマイとンーミの面は木彫りであるが、以前は、紙や竹の皮、芭蕉の葉、シュロの葉等で造られた簡単なものであった。
植物の葉を身に纏うのは感染のためであり、二人が手にする生蒲葵扇(なまくばおうぎ)の蒲葵(くば)は神の依代であり、生蒲葵扇は神の象徴であろう。
しかし、翁、媼は神ではなく、古老である。
二人は甲高い裏声で招請された各戸の祖霊を慰め、家族を称えた後、観衆に向かい人間の徳目や心構え倹約等を説き、観衆の質問に面白おかしく返答する。だが返答に窮すると神でないゆえ、観衆から罵声を浴びせられる。
翁、媼と質問者の珍問答に観衆は高笑いし、邪鬼を払い、ファーマー(子孫)は舞踊で祖先の霊を慰める。
アンガマ踊りは沖縄の似せ念仏の影響を受け集団による土臭い円陣舞踊から、ウシュマイ、ンーミを登場させ、格調高い舞踊をするアンガマ集団に変貌したといえるだろう。
…<作家>
写真提供=八重山毎日新聞社
石垣市字登野城のアンガマ 2000年8月12日撮影