この記事は、袋中が浄土宗の教義をわかりやすくして那覇のひとたちに教えたもので、琉球の念仏者はこれから生じたという。
この記事を「念仏歌の一種の起源説話である」という研究者もいる。
一六〇九年、薩摩藩が琉球に侵攻し実質的な支配下に置いた。
一六一四年には、薩摩藩の勧めにより石垣島に桃林寺(とうりんじ)が創建され初めて仏教が伝来した。
当時、仏教が民衆とどう関わったかは詳らかではないが、『山陽氏大宗家譜(さんようしたいそうかふ)』は宮良親雲上長重(みやらべえちんちょうじゅう)が、一六五七年に念仏講を開いたと記している。
宮良親雲上長重は『八重山島旧記』乾隆(けんりゅう)三十三年(一七六八)の記録によれば「大念仏具を桃林寺に寄進し阿弥陀講を創設し毎年二月八月に会合を開いてきた。島中の葬式に備えて、沖縄本当の浄土人から修行してきて世間のためになっている」とある。
石垣島でも仏教が布教し始めている。
一七三六年、琉球王府は「服制」を布達(ふたつ)した。これは王子から、田舎の百姓にいたるまでの葬礼規模の規定である。
その中の「田舎衆」の条文は、役人は坊主を呼んでもよい、百姓は念仏者はひとりだが、念仏なしで済ませてもよいと規定している。
それから一世紀後の、一八七五年に八重山地方に布達された『富川親方八重山島諸締帳(とみかわおやかたやえやましましょしまりちょう)』の「葬礼の定め」は「坊主を招請する場合、頭以下目差までは二、三人、若文子(わかてくぐ)以下役についていない奉公人は一人に限る。百姓は坊主を招請する場合は一人までと規定し、生活に困窮している者は坊主を呼ばなくて経巾(きょうかたびら)だけで済ますこと」と記している。
坊主のいない地域ではニンブジャー(念仏者)が坊主の役割をした。
念仏者は死者が出ると鉦を叩き、葬送の際には、墓所まで行き経文を唱え、ソーロンには念仏歌をうたった。
池宮正治(いけみやまさはる)によると「念仏は浄土教では、死者の意味で「南無阿弥陀仏」の名号を称えることをいう。本土では時宗(じしゅう)の流れを汲むと称した乞食坊主が、和讃の鉦を鳴らしながら門付芸をして回る者を『念仏申し』といった」という。
沖縄の念仏者は首里のアンニャ村に住み、チョンダラーとも呼ばれた門付芸人たちで特殊な目でみられたが、八重山の念仏者は乞食坊主ではなく彼等は村からニンブツダー(念仏田)を与えられ、そこから取れる米を報酬とした。
八重山には『無蔵念仏節』『七月念仏節』『御普代念仏(ぐふだいねんぶつ)節』『園山念仏(そのやまねんぶつ)』『仲順流(ちゅんじゅんなが)れ』等数曲の念仏歌が伝承されている。
それらの歌は役人や船員たちによって沖縄から伝播したものである。
那覇や首里等では盆踊りが盛んであった。
『那覇市史』所収の「伊江朝睦日日記(いえちょうぼくひにっき)」や「親見世日記目録」には念仏踊の記録が多く見える。