明るく広い2階のフロアに10個程あるテーブルの1つにお邪魔して、元患者の方を含めた従業員4人とお話しする機会を得た。皆、色とりどりの布を持った作業の手を休めず、しかし親切に話し掛けてきてくれた。50才くらいの元患者家族に「日本の元患者の方が、フィリピンの仲間によろしくとおっしゃっていました」と言うと、にこにことされ、しばらくして「あなたはハンセン病患者をこわいと思う?」と聞かれた。
この時、何と答えるべきだったかと、帰国してからも思い出して考えることがある。容貌の変化という、人間にとっての脅威を伴いうるこの病気が、差別とともに歩む特異な歴史を身近に見た経験であった。
この後、各自で土産に人形を買い求めた後、穴田さんの案内でショッピングモールにて昼食、まだまだ続く車内トークを聞きつつ、パヤタスに向かう一同であった。 (堀)
2) パヤタスのゴミ山崩落現場訪問
(1) パヤタスについて
(2) 崩壊事故について
(3) SALT訪問とゴミ山登り
(4) 家庭訪問
(5) フィリピン大学医学部の医療救援グループと
午後はパヤタスを訪れた。ここはマニラ地域のごみ処分場である。長年蓄積されてきたごみ山が崩れて住人が死亡する大災害となったことは日本でも報道されていた。
パヤタスと崩壊事故について簡単に説明してから見学報告を述べる。
(1) パヤタスについて
パヤタス(Payatas)はQuezon Cityに属する7つの村(Barangay)により構成される地区の名称であり、人口は約76,000人である。かつては郊外の静かな谷であった場所には1970年代後半よりゴミの投棄が始まり、80年代後半にはゴミ山の底面積20ha、高さ50mを超え、Smoky Valleyと呼ばれるようになった。90年代以降、他の地域のゴミ集積場封鎖等によりゴミ投棄量が増大した。結局パヤタスには先日の崩落事故が起きるまで約25年間に渡って、産業廃棄物を含めた生活廃棄物が分別されることなく投棄され続けたこととなる。マニラ首都圏(メトロマニラ)1日のゴミの総量16,000トンのうち6,000トンが運び込まれ、1日に400台のトラックが24時間ゴミを運び込んでいた。
ゴミ山(Smoky Valley)周辺の約10haの土地に、約10,000人の人々が生活している。そのうちの30%程度は、ゴミの中から換金可能なリサイクル品を拾って生活している通称「スカベンジャー(Scavenger)」(住民は自分たちをEco-peopleと呼んでいる)である。90年代初頭のスカベンジャーの数は現在の約半数程度であったが、95年のSmoky Mountain封鎖、97年の通貨危機を契機に大きく増加し、崩壊前は約3,000人と推定されていた。