斬新極まる効果と印象で聴き手を圧倒する―これは團さんの「交響曲第6番」のものではない。「第6番」に限った話ではなくて、團さんのすべての交響曲、あるいは20曲近くに達する管弦楽曲―それらのどこにも見出せないであろう。
何故そうなのか?
それは團さんが、自身の創作上の主張を貫くためには土俵を広げることも辞さない、といったタイプの作曲家でないからである。この作曲家は既存の、多くの人々によって長い間承認されてきた土俵の中で、自らの個性を磨き、自己主張する道を選んだのである。従って単純な新尊旧卑に傾く気持は、この人の場合、皆無であった。こう書くと、いかにも頑固一徹な保守的作曲家、と誤解される恐れが無きにしもあらずだが、決してそうでないことは、これまでの團さんの作品それ自体が、明らかにしてくれているところである。
音楽の本質は抒情にあると見定め、その追求に熱心だった團さんだが、ときには別の一面を見せてくれたことがある。
例えば、1991年に書き上げられた管弦楽のための「飛天繚乱」。この曲は、天女たちが飛びながら(=飛天)楽器を奏でている仏教壁画に中国各地で接した團さんが、音そして音楽が空を飛ぶという古代中国の人々の豊かな想像力に感じ入り、書き上げた作品である。天女たちが奏でる音楽に思いを馳せて書かれているのだから、抒情的かと思いきや、さにあらず。たくましくて力強い音楽で、大太鼓、ボンゴ、ウッド・ブロック、グロッケンシュピールなど、各種の打楽器が登場する。これら打楽器と弦楽器群ならびに管楽器群が織りなすファンタジーは、どこかモダンな感じ、つまり現代の私たちにつながるところがあり、同時に遠く古い時代ともどこかでつながっていると感じさせるところもあった。この作品においては、時を超越した響きの世界が創出されている―これが私の個人的実感であった。
私の推測によれば、團さんが目指してきたのは、技法やスタイルや着想が新しい作品ではなく、時を超越する作品を書くことである。それをやった、と私は考える。