後者が理に徹しているとすれば、前者は情を重んじた交響曲といってよいと思うが、一般の音楽ファンがどちらのタイプに心を動かされやすいかといえば、これはもうはっきりしている。前者であるのは断わるまでもない。
ただし、ここで忘れてほしくないこと―それは團さんが人気を獲得、保持せんがために、自身の音楽的気質に反してそういう作風なり、スタイルなりを身につけたのでは決してない―この事実である。團さんの作品は、それが初期のものであれ、あるいは最近作であれ、さらには童謡・歌曲・合唱曲・オペラ・交響曲・管弦楽曲・室内楽曲などジャンルのいかんを問わず、そのすべてにおいて、広い意味での音楽的抒情が脈々と流れているといってよい。つまりこれが團伊玖磨という作曲家の生地なのであって、自分を曲げてそうなった“仮の姿”なんかでは、決してない。断じてそんなことはない。
1985年に作曲され、以来こんにちに至るまで團さんの“最後の”交響曲であり続けてきた「交響曲第6番<HIROSHIMA>」は、オーケストラにソプラノ独唱と横笛が加わっているが、ここに見られるような声ならびに非ヨーロッパ音楽の要素を、ヨーロッパで生まれ育ったオーケストラと結びつけた新しいタイプの交響曲は、かつての盟友である黛敏郎さんも書き上げている。「第6番」の30年近くも前、1958年に完成された「涅槃交響曲」がそれである。
オペラ「金閣寺」とともに、黛さんの代表作と目されているこの大作では、日本の寺院のつりがねの響きを電子工学的に分析、得られた音色・音高などの諸要素を、3群に分割されたオーケストラに受け持たせて再合成したその響き(黛さんは、これを「カンパノロジー・エフェクト」と名付けていた)を、全5楽章中の第1・第3・第5楽章に置き、全曲の統一的要素としている。他方、第2・第4楽章では、6人の男声ソロと12部からなる男声合唱が、これまた3群に分かれ、独特の集合音で禅宗の経文、天台宗の声明を唱える。しかもオーケストラと合唱は、演奏時、聴き手を取り囲むように配置される。これにより聴き手は、遠近的というのか、立体的とでもいうのか、ともかくステージの一方向からのみ流れてくるのではない独特の音響の渦の中に投げ込まれる。その効果の、なんという斬新さ!要するに、日本古来の響きに着目し、それを素材として取り入れ、現代的な、そしてまたヨーロッパ的な手法で処理したばかりでなく、演奏にあたっては独唱・合唱・オーケストラの配置に工夫を凝らし、これまでだれも聴いたことがないような音響による建築を生み出して見せたのが、「涅槃交響曲」にほかならない。