第4楽章アレグロ・コン・ブリオは、ほぼロンド・ソナタ形式を思わせる終曲で、無窮動風の弦楽器による第1主題と、管・打楽器の中で対比をみせる第2楽章に、わらべ歌風の性格をみせる第3主題も加わり、対位法的にも巧緻に扱われ、精力的にすすめられたのち、第3主題がコーダを築きあげる。
交響曲第6番<HIROSHlMA>(1985)
第4番とほとんど併行して書かれながら、かなり対照的な存在をなすことになった第5番は、静岡県を対象としたものであり、第4番が第3番の延長線上にあったとすれば、第5番は第2番の流れにあるものといえるが、それらに続くべき第6番は、じつに20年という時間的距たりをもって生みだされた。その間に、彼は、<ひかりごけ>と<ちゃんちき>という2作のオペラや、青山学院創立100周年の記念委嘱にこたえた<シンフォニエッタ>ばかりでなく、3曲の<日本からの手紙>や合唱と管弦楽のための交響詩<ながさき>などいくつもの作品が書かれているが、その時間が交響曲作家としての彼にとって、かなり長かったことはまちがいない。それだけに、第5番と第6番の間に、書法や作風の面でかなり大きな変化がみられるのも事実であり、それが、ある意味で新たな出発点となっているようにも思われる。
この第6番は、広島青年会議所平和問題委員会の委嘱によるもので、1984年春に構想され、同年秋から翌年にかけて筆がすすめられ、1985年8月1日に横須賀で完成された。初演は、1985年10月4日に広島厚生年金会館ホールで開かれた「平和コンサート2001」において、作曲者指揮の広島交響楽団によってなされた。その際のソプラノ独唱は曽我栄子、日本の笛は赤尾三千子であった。その後、1989年12月12日にはウィーン交響楽団、92年1月11日にはジョルジュ・エネスク交響楽団を指揮しても演奏されている。<HIROSHIMA>の標題は、そうした経緯によるものであるが、彼は、そこで世界最初の原爆被爆都市となった広島の悲劇への挽歌を意図したのではなく、広島のすべてに捧げるものとして構想したのであった。