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それは、人間という存在が地球上に許されて良いものなのか、神という存在は人間にとって何なのか―の問いを、團伊玖磨は武田泰淳の作品「ひかりごけ」により、音楽を通じて聴衆にその解答を迫った。人間の極限状態の中で、“人が人を喰わざるを得ない”追いつめられた人間の罪の重さとは何なのか。人はその“重さ”を量り得るのか。

團伊玖磨の音楽はこの作品で一変する。「夕鶴」の“やさしさ”も、「聴耳頭巾」の“血の騒ぎ”もここでは吹っとんでしまう。氏の持つこれまでの技法では、対応しようもない内容だ。おそらく團氏自身も、それまでの自己否定から出発せざるを得ない苦しみがあった筈だ。氏は現在の日本の音楽状況の中にあって、むしろ保守派と考えられがちであるが、「ひかりごけ」のスコアを丹念に読めば、保守に対する「前衛」の意味の脆弱さがうかび上がる筈である。氏は単なる《音響のデザイナー》ではない。耳を刺激し、おどろかすだけの音響創造者にだけはなりたくないのだ。

耳を驚かすだけなら、いくらでも奇抜な手法が考えられようが、團伊玖磨がスコアに刻む音の、人間としてのメッセージの深さを聴きとるには、聴く側も“音の思考性”について考えるべきだろう。《美とは驚きである》とアリストテレスは云ったが、《驚きとは美である》とは云ってないのである。

 

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▲オペラ「ちゃんちき」

 

「ひかりごけ」の凄絶な世界を通りぬけ、團伊玖磨はもういちど日本の素材へ足を向けるが、第五作「ちゃんちき」('75)は、邦楽器を加える色彩的音響世界を背景に、《世代交代》という、誰もが一度しか与えられていないこの人生の中で、必ず味わわされ、考えさせられねばならぬ宿命観が描かれた。この「ちゃんちき」は、ヨーロッパ、殊にドイツで深い関心を呼んだようである。最初は邦楽器などの特異な楽器編成のもたらす日本独自の音響的魅力に惹かれているうちに、その寓意の世界が聴衆の心の中に呼びさまされ、“生きる悲哀”にまで昂められる過程に大いなる共感を呼んだと思われる。

團伊玖磨の七つのオペラの制作年代を見る時、最初の三作品「夕鶴」「聴耳頭巾」「楊貴妃」は何れも50年代に、それも三年間隔で書かれているが、第四作「ひかりごけ」のあいだに十四年もの空白があり、「ひかりごけ」と「ちゃんちき」が何れも70年代で三年間隔、そして第六作「素戔嗚」に至るあいだにまたもや十九年という長いオペラ制作期間の空白がある。この間、氏の頭の中にオペラがなかったわけではなく、この期間、次の題材を求めて「古事記」「日本書紀」などの研究に費やされたとも見られる。

 

 

 

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