私はその頃、現代音楽、というか生きている作曲家の作品を一番いい形で演奏するということを心がけていた時期で、当然、ピッコロもアルトフルートも吹きますので「はい」と軽くお答えしたんですが、後の話では先生はそれがお気に召されたということで、その1年後には「長崎街道」が書かれたんですが、それが私が関係した最初の曲です。
日下部:それも合唱曲ですね?
大和田:そうです、ところがまるでフルートのコンチェルトではないですが、フルートの作品に合唱とソプラノ・ソロ、ピアノ伴奏がついているくらいに、フルート、ピッコロフルート、アルトフルートの3本使っていて、先生は何もお考えにならずに音楽の上でそうされたのだと思いますが、大変ドラマティックな作品でした。その頃私は長崎という土地に大変興昧を持っていたということと、紫という色に大変惹かれていた時期なんですね。それで先生の作品と、私の持っておりました長崎と、紫というイメージに一致して大変印象の深い曲なんですけれど。齋藤昌子さんがソプラノ・ソロをされて、合唱団は、西友中央合唱団でした。とにかくその時、先生がフルートに対して随分興味を示されたんです。その頃、私はソリストして、パリ音楽院を卒業したてで動き始めておりましたが、自分の中では「日本人」というか「自分は自分である」という意識がずっと強くありまして、たまたまフランスヘは、ジャン・ピエール・ランパルさんに見いだされて、急なことに悩みながらも結局留学というチャンスがあったのですが、私はその2年前、師匠の林リリ子先生が亡くなった頃以降、フルートの方で自分で確立していた音楽のあり方と、團先生との思いがけない出会いが急にエネルギーを持ち始めたのです、その「長崎街道」で。また、そのツアーをしている時ですが、当時私は日本人で日本語が大好きでありながら、かなりの間、日本語が出てこない、フランス語の方が楽という時期だったんですね。10代後半からの留学だったものですから。まあ言語は二次的なものであり、そんな状況の頃、当時はソナチネだったんですが、現在ソナタといわれる曲を、ワシントンDCで初演しました。その後も、サンフランシスコの現代音楽祭ですとか、UCLAのロングビーチ校とか、いろいろな所で演奏しました。
フルートとピアソだけでもオペラのドラマ性が
フルートの技術としては難しいものが色々含まれておりますが、ただドラマ性がすごくて、まるでオペラの作品のような感じなんです。フルートとピアノだけで、オペラなのです。特に私は「夕鶴」を感じたんですね。昔、子供の頃、先生はどう思われるかわかりませんが、團伊玖磨さんの音楽を使って演劇、ということで「つう」の役をやったことがあるんです。パリのコンセルヴァトワールにいたときは、本当にものすごい量のレパートリーを勉強しましたけれど残念ながら、團先生のような作品はなかったのです。それで「長崎街道」に始まり「フルートのソナチネ」に凝縮されてきて、20世紀における世界のフルートの音楽作品の中の歴史の重要なポイントに先生の作品が出てきて、今は世界中で色々な方たちが演奏されて、大学の卒業試験とかでも演奏される位、ポピュラーになっています。