ことに京子先生が「三つの小唄」を歌われた時はすごく感激しておりまして、それは今でも尾を引いております。浜町出身の藤田先生はいかがですか?(笑)先生のお育ちになったところはすごく粋だったでしょう?
藤田:実は、「勝太郎」は僕の母や叔母がだいぶ面倒をみてあげていたようです。あんなに売れる前のことですが。
小山:ああ、そうなんですか?
藤田:母は浜町で待合いをやっていたんで。芸者さんの膝枕を赤ん坊の時からやってたもんですから(笑)まあ、みなさん大体おっしゃっちゃったことですが、團さんの歌曲には独特の色っぽさもありますね。
畑中:ただ残念なのは、このところずっと歌曲が團作品の中からちょっと薄れているといおうか、たぶん現実的な種々なお仕事の関係で歌曲を書く時間がなかったのか、頭の中では常によぎっているんでしょうけれど…
團:ええ、ある時期に歌曲をやめました、僕は。
畑中:それは意識的に?
團:ええ、意識的に。それはやはり自分を器楽的にもっと鍛え直さないと、この道だけで行くと、自分が小さく小さくなってしまうんじゃないかということです。やはりオペラを書くようになりましたんで、そっちに精力が集中する。オペラを書く上での一番の難しさはやはり声と同時にオーケストラですね。オーケストラを徹底的に知って、オーケストレーションを自分の手に納めるのは大変に時間のかかることだし、海外のオペラハウスを、経巡らなくてはなりませんでした。ただひとつこれは後で申し上げようと思ったのですが、良い指導者が、僕のまわりにいてくれたということです。
三人の師
これは長くなりますから後にしますが、やはり歌曲の真髄というものを口移しに教えてくれた人は山田耕筰でした。僕が13歳の時に山田耕搾先生の知遇を得て、音楽家になった訳で、先生には戦後、音楽学校を出てからずっとお仕えしたというか、年齢を超えた愛情で結ばれてましたし、山田先生の反面教師的なものまでを含めて、最後に先生の「香妃」というオペラのオーケストレーションをご一緒に、そして先生が亡くなられてからは一人でする運命になった訳です。やはり山田先生は日本の歌曲の礎を作った方なので、そこから学ぶことは多かったということ。それからもうひと方、木下保先生という、これは声楽の先生ですが、私に歌というものの厳しさというか、素晴らしさを、単なる、ある旋律を歌うというだけのものでなく、歌謡でなく歌曲とは何か、ということを木下先生に教わることは大変多かったです。例えば歌曲集の中にあります「わがうた」などは、1曲出来るたびに代々木の木下先生の家に行って、2人でピアノを弾いて、歌って、ここはこうだという指摘もあったし、あの中に「ひぐらし」という歌があるんですが、今も忘れられないのは、あの歌が出来た時に木下先生の家に持っていった時に、歌って、突然立ち上がって「初めて日本に歌曲が出来たんだ!」と。珍しいことですね、僕の肩を抱いて「この先もしっかりやらないと承知しないぞ!」と変な要求(笑)をおっしゃって、なおかつ全く無名だった僕の歌曲だけでの一晩の演奏会を昭和25、6年という大変早い時期に毎日ホールで開いてくだすったりした。その後まで、オペラの「夕鶴」に出演してくださったし、「声」というものをどういう風にしなくちゃいけないかということを本当に論理的に、よく教えてくださった方だと思います。