決して皇国史観などの問題で、古い「古事記」「日本書紀」を書いたんじゃありません。あの中で「現代の男」を書いたつもりです。
日下部:さてそうすると、この後團先生のオペラがこれからどっちに行くかということに我々は大変興昧があるのですが。ワーグナーに到達して、次はリング「指環」になるのかな、なんて話もありますが。
團:そうはなりませんよ。もう、1つ決めてあるのは、これは非常に少ない人数のデュオ・オペラです。2人しか出てこない。小さいものですが「ひかりごけ」よりもっと深刻なものです。題は言いません。それからもう一つは、喜劇です。底抜けに明るい。僕と個人的におつきあいのあった方はおわかりになるでしょうが、そうした面も…。
日下部:ファルスタッフですか(笑)
團:きっと最後はその喜劇になるんじゃないですか。
日下部:いや、まだまだ最後なんておっしゃらないでください。…
團:いや、だってね、ヴェルディみたいな頑健な人だって82歳ですか、ファルスタッフを書いたのは。それからR.シュトラウスも80代になりますと、オペラよりもオーボエの協奏曲とか、「4つの最後の歌」ということになりますでしょう。やはり自分の体力に逆らったことはできませんから。精神力も体力から発生してくるんで。まあ、オペラはあと2つ位書ければ嬉しいな、と思っているだけですから。
日下部:わかりました。やはりオペラが團先生の作品の機軸をなすものだと思いましたので、少し時間をたくさんとらせて頂きました。さて次に歌曲のお話をしたいと思いますが、何といっても、戦後、團先生のお書きになった最初の音楽作品が歌曲だったということですね。
團:今、「50曲集」が音楽の友社から團伊玖磨歌曲集ということで出ていますが、あそこに載っている全部が、歌曲に集中した時代に出来たものです。昭和20年代、20年が「6つの子供の歌」という最初の作品と、あと21年、22年という風に、ある時期まで、歌曲を僕の集中して書いていた…。
日下部:戦後の創作活動のスタートになるという風にもいえますね。
團:そうですね。そうでないものもありますが、歌曲というものは、あの歌曲集の序文にも書きましたけれど、僕の伴侶であり、恋人であり、先生であり、厳しいものだったということを書きました。そして、非常に幸せだったのは、全作品といっていいその作品が伊藤京子先生によって歌われたことです。ご苦労をおかけしました。
総譜に書かれている心を
伊藤:はい、ちょうどその頃私は「夕鶴」も少し歌わせて頂いていたんですが、先生から、僕の歌曲全曲をリサイタルで2晩やりなさい、というお話があって、本当に恥ずかしいことに実は「夕鶴」以外に一曲も私は團歌曲を歌ったことがなかったんですね。「夕鶴」だけで私の頭の中は精一杯だったんです。大変光栄なことで、楽譜はもちろん持っておりましたんですが、「楽譜にない曲もあるから」とおっしゃったりして。でもその間に、團先生の曲というのは、やってもやっても、勉強してもしてもしつくせない、というか、そう私は実感いたしました。そしてピアノをずっと弾いてくださっていた三浦洋一さんと、今もって、「あの何十年前のリサイタルほど勉強したことなかったね」と言っています。だけど、勉強しなきゃ出来なかったわけで、実際の時間をうんとかけないと、團先生が楽譜の中でおっしゃっていることも、それから声のテクニックもものすごく大変だったので、勉強せざるをえなかったということを体験しました。