大陸の文化の記憶をも宿し、かつてはシルク・ロードの東の終点でもあった地に住む混成民族として、鰻丼や親子丼を食べずにはおれない精力的な人穫として、グランド・オペラや交響曲の如き息の長い曲種に正面から取り組んで、西洋の作曲家たちと伍していっても何ら不思議ではないのである。
ここまで論が及べば、團のオペラの中に中国物の『楊貴妃』がまぎれこんでいたり、その管弦楽曲に『シルクロード』や『アラビア紀行』や『万里長城』があるからといって、異国趣味云々とは呼べなくなるだろう。それらの作品は、日本人がその歴史と精神の古層に於いて、中国どころかはるか西アジアとも繋がっているのだと訴えているのである。
結局、團伊玖磨は、山田耕筰から武満徹に至るのとは別の日本の音楽の可能性を探求してきたのだ。それはあくまで息長く、大スケールで、筋骨隆々とし、壮麗なものである。『新古今』ではなく『万葉集』の、わびさびではなく歌舞伎的な、懐石料理ではなく丼物の、箱庭的な風景ではなく大火山の鳴動する、鎖国時代ではなく遣唐使の時代や安土桃山時代の、そういう日本の音楽である。そこでは短めの楽曲よりもグランド・オペラや大交響曲のような形態が本質的によく似合ってくるだろう。
さて、そうした音楽作りにあたって團の有力な武器となるのは、遺伝子に豊富に大陸の記憶を蓄えているのだろう彼ならではの、おおらかで息の長い旋律の感覚だ。同じメロディストでも、山田耕筰の旋律は、たとえば『からたちの花』や『この道』の、あの印象深い出だしの如く、ハッとさせるような瞬間的身振りによって際立つのだが、團のそれは、とりわけ交響曲第二番や『雪国』等の映画音楽や『素戔鳴』、『建・TAKERU』といった近年のオペラに如実に示されている如く、酒々と大河的に押し寄せ、聴く者をそこに溺れさせるのである。
が、そんな滔々たる旋律美だけでは、グランド・オペラや大交響曲を仕立てるには不足とも言える。そこにはどうしても長丁場を組み立てる論理が不可欠になる。團が山田耕筰に飽きたらず、戦後数年、諸井三郎に師事した理由はそこにあるだろう。もはや紙幅も尽きつつあるのでごくごく端的に述べるなら、諸井は情緒的で短めの歌の世界に本領を見出だした山田に反発し、とりわけベートーヴェンを模範に論理的で長大な器楽曲作りに励んだ作曲家であり、その音楽は、山田への敵対意識と諸丼本人の個性としての言わば旧制高校的なストイシスムによって、歌謡性、情緒性、官能性、色彩性をあまりに排除した、灰色の、骨だけの、論理の怪物のような様相を呈していた。團は、互いに欠けるもののあった山田と諸井の双方に学ぶことで、音楽の全体とでも呼べるものを手に入れたと言ってよいだろう。
かくしてここに我々は、情緒的な歌曲とその延長としてのオペラを目指した山田耕筰、その徹底したアンチ・テーゼとして論理一辺倒で非情緒的な交響曲を目指した諸井三郎、両者を止揚し、情緒と論理を兼ね備えたオペラと交響曲を両方つくり、日本の近代音楽をひとつの完成に導き、西洋にいよいよ伍そうとする團伊玖磨という、弁証法的な作曲史の運動を思い描くことができる。
そんな團の企図の現実に於ける成果のほどは、そのオペラと交響曲、それからその周囲を巡る多くの衛星的作品が回顧される2000年の一連の催しによって、たっぷりと明かされることになるだろう。そもそもこのフェスティヴァルの規模が、壮大さを嫁む團伊玖磨の世界にまことよく見合っている。
(かたやまもりひで/評論)