「(上等な料亭で出される)日本料理の貧相な事はどうだろう。海岸で拾ってきたような海藻を巻いた物だの、胡瓜に醤油を絞った滓だのをなすり付けた物だのから始まって、魚肉をただスライスしただけの刺身だの、茄子をふにゃふにゃにただ煮た物だの、一体こんなものを食べていて生きて行けるのかと、僕は日本料理を御馳走になる度に、肌寒くなってしまう。何とか生き永らえて行くだけというなら、日本料理でも良いかもしれないが、この廿世紀の苛烈な環境の中で、他人の四倍も五倍も働き度いと思うこちらにしてみれば、こんな食べ物は不適当と言わねばならない。」
とはいえ、もしも俳句や根付けや日本三景や小鉢・小皿料理が日本的なるものの本質にしてそのすべてであるとするならば、それら揃って小スケールのものを好きだの嫌いだのと騒いでみても仕方ない。日本に生まれたからには、とにかく運命として甘受しなければならない。そして、そんな日本的なるものを、近代音楽に於いてでよくも悪くも代表することになった最初の重要な作曲家が、小品的な音楽に力を発揮し、グランド・オペラの創造を志しながらついに「傑作」を生むには至らず、多楽章の交響曲にも若年の習作以外は手を染めなかった山田耕筰と思われるのである。そしてその延長線上に、はかなく瞬間的で夢のような音の身振りを追求し、また山田同様、時間の短めな音楽を得意として、グランド・オペラを書くと言い続けながらついに書かず、無論交響曲とも縁のなかった武満徹を見つけだせもしよう。山田から武満へ。この結び付けは一見奇異に感じられるかもしれないが、両者とも息の短い音楽をミニチュアリスティックに極めていったという意味で、そこにひとつのジャポニスムの系譜を確かに発見できるのである。
しかし、本当に日本人はジャポニスム風の息の短さから、山田耕筰的世界から逃れられぬか。西洋的な息の長さにはついに太刀打ちできず、グランド・オペラや交響曲は諦めて、ミニチュアリズムの上に居直り、かえってそれを売りにし、西洋とは別次元の美学をタテに勝負してゆくしかないのか。團が山田の弱点と見た小スケールな音楽のありようは、ついに克服不能なのか。
どうやら團という人は、そんなことはないと考えた。そもそも日本の文学史は短歌や俳句のみならず、『源氏物語』のような世界的大長編小説を持っている。日本の風景にも、日本三景の如き箱庭的景物のみならず、富士山や日本アルプスや阿蘇や太平洋といったそれなりに雄大なものもある。それから料理も。團はあちこちで鰻丼や親子丼等、日本の庶民が考案してきたヴァイタリティ溢れる食べ物の魅力を語ってきた。
さらに團は、『続々パイプのけむり』中の「顔」というエッセイに、東京音楽学校の同級生の朝鮮人に、戦時下の学生時代に次のような話をしたと述懐している。「團という字は、狸褻な意味を持っている関係で、北支那にはこの名前の人は居ない事、然し、南支那にはこの名の人は居る事、自分の故郷は九州であるが、きっと南支那から、台湾、沖縄を経て、自分の祖先は九州に辿り着いたのだと思う事。」
つまり日本人とは、長い時代にわたって大陸等から渡来した様々な民族の血が混じって成り立っているのであり、決して世界から隔絶し、狭い島国でこせこせしてきただけの存在ではなかったとの認識である。しかも團なる姓を持つ自分には、大陸的なものの記憶がとりわけ刻印されているというわけだ。
とすれば、日本人がミニチュアリズムに呪縛され、それだけにこだわり、それだけを誇る必要はない。