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山田の歌劇はそのような傾向におちいりがちでした。」(『私の日本音楽史』)

だから團は、日本語の作曲法について言えば、山田の示した大原則をそれなりに尊重しつつも、決して拘泥はせず、そこから自由に逸脱していった。

たとえば團の処女歌曲集「六つの子供の歌」(1945年)には、音程が上がるときに音勢も強まる例が幾らも発見される。また、歌曲集『東京小景』(1951年)の第六曲、知恵の遅れた子供が動物園で象を眺めている光景をうたった「上野」では、冒頭の「ていのうじ」なる詞に充てられた三つの音符が、すべて同じ高さのレの音である。「ていのうじ」は標準語のアクセントからすれば中上がりだから、山田の原則に従えば旋律も二番目の音が上がらねばならなくなるが、團はあえて平板で通すのだ。それはおそらく知的障害児がぼんやり無心に象に見入っている、何か停滞しきった雰囲気を表すには音程の高低がない方がいいとのアイデアに基づくのだろう。つまりここでは、作曲者の自由な曲想が、日本語の高低アクセントに優越している。さらに團のとりわけオペラには、一音符一綴音の原則から外れる例を見出だすことができるだろう。

そのようにして團は、師、山田の日本語の歌の、ある意味では細部に縛られすぎ、こじんまりとせざるを得なくなった世界のあちこちに風穴をあけ、それをよりのびやかに押し広げようとしたのである。

いや、日本語への付曲のことにばかりこだわり過ぎたかもしれない。ここで改めて確認しておけば、團にとって克服されるべきは、単に山田の幾分教条的でもある日本語作曲法のみではなく、そういう作曲法に象徴され、なおかつ山田の、声楽曲に限らず作品全般に50本質的に備わっていた、患の短さ、スケールの小ささ、ミニチュアリスティックに細部に埋没してゆく傾向だった筈である。そういう山田の個性は、小歌曲や短い交響詩を仕立てる際には長所ともなったが、グランド・オペラや、あるいは大規模で堅牢な交響曲を鍛えるのには、やはり不都合だった。

そして團の眼には、そうした山田の個性が一作曲家のみの事柄としてでなく、まこと日本的なるものの象徴と映りもしたろう。なぜなら山田の音楽に認められる患の短さ、スケールの小ささ云々とは、この東洋の島国とそこに住む人間に、常に付いて回るレッテルそのものでもあったから。

たとえば、19世紀中葉からのヨーロッパの美術・文芸には、ジャポニスムと呼ばれる日本趣昧が流行し、そのときの流行の内容が後々まで、いや、ほとんど今日に至るまで、欧米人の日本文化観を決定づけているといってよいが、ではその内容とは何であったかとなれば、根付けのようにこまごました細工物であり、細密に設計された浮世絵であり、俳句や短歌のような短詩型文学であった。つまり、日本即繊細でミニチュアリスティックというわけである。

あるいはここで日本人が伝統的に愛でてきた景色の中身を想起してみてもよい。日本三景といえば松島、天橋立、厳島であって、いずれも箱庭的な景物である。勝海舟は『氷川清話』の中でこう慨嘆している。「おれはいったい、日本の名勝や絶景は嫌いだ。皆規模が小さくてよくない。試みにシナに行って揚子江に臨むと、実に大海のように思われる。また米国に行って金門に入っても気分が清々とする。国が小さければ、景色も小さく、人間の心も小さい。」

そして團にも、勝海舟と通底する心持ちが強くある。『又々パイプのけむり』に収められた「日本料理」なるエッセイで團はこう述べている。

 

 

 

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