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オペラを先に植え付ける必要がある。それも輸入物だけでは、本当の根は下りない。どうしても、日本の歴史や文学から取材して、新しい国民オペラを作らなければならない。」

山田はこの志にしたがって、日本で最初の本格的オペラと呼んでよかろう、羽衣伝説に基づく『堕ちたる天女』、ついで歌舞伎や浄瑠璃でなじみの浦里・時次郎の物語による『あやめ』や、幕末に取材した『黒船』といった作品を仕上げた。一方、團のオペラを『夕鶴』、『聴耳頭巾』、『楊責妃』、『ひかりごけ』、『ちゃんちき』、『素戔鳴』、『建・TAKERU』と年代順に並べてみれば、そこには民話・伝説から現代文学(『ひかりごけ』は武田泰淳の作品によっている)を経て、日本人の想像力の原点というべき記紀の神話世界へと立ち戻ってゆく、「国民オペラ」の創造への軌跡が浮かび上がってくる。第三作に中国物の『楊貴妃』があるのがとりあえずは例外になるけれども。(團の作曲家としての姿勢からすれば、『楊貴妃』が日本の「国民オペラ」にならぬとは必ずしも言えない。その理由については後で述べる。)

ともかく、ドイツに於けるヴェーバーやヴァーグナー、フランスに於けるビゼー、ロシアに於けるグリンカやムソルグスキー、チェコに於けるスメタナのような国民的オペラ作家を持てて、はじめてその国の音楽は世界に誇れるものになるとの認識を、團は山田から受け継いだのである。因みにおのれの初期の歌曲群を、オペラに向けて日本語への作曲技術を鍛練するための、準備運動的な創作とみなしている点でも、この師弟は同じである。

と、このように書いてしまうと、まるで團は山田の従順な追随者のようだけれど、もちろん決してそうではない。先述の如く、團はある部分では山田を批判し、克服しようとした。第一、山田がその旋律的才能によって非の打ちどころなき「国民オペラ」までを創造し、日本の近代音楽をひとつの完成に導ききったとすれば、日本の作曲がまだまだという大田黒元雄の仮説も崩れ、團の出番もなくなってしまうではないか。加えるに團は、山田耕筰と違い「交響曲という純音楽」の創造にも、「国民オペラ」に劣らぬ執念を抱いている。

それでは山田の批判されるべき欠陥、不足とは何だったのだろう。團はそれを山田の音楽の息の短さ、スケールの小ささ、ミニチュアリスティックな傾向に見出だしていったように思われる。

たとえば山田の交響詩『曼陀羅の華』(1913年)を聴こう。それは三〜四管編成にサックスまでも加えた大型の管弦楽を用い、後期ロマン派風の爛熟した響きを求めた作品で、R・シュトラウスの交響詩がモデルと言ってよい。が、概して大仰で持続力たっぷりなシュトラウスと明らかに異なるのは、山田の作品が極めて小振りということだ。ハープの一気呵成なグリッサンドと弦楽のちょこまかした六連符のやりとりではじまる音楽は、以下、断片的な楽想を次々と繰り出してはそれらをじゅうぶんに展開させずにすぐひっこめ、曲の表情、テンポ、音量もめまぐるしく変転して、全体の演奏時間はというと僅か七分ほどに過ぎない。つまりそこでは、山田らしい音楽の表情の多様さは、楽想の息の短さ、せせこましさ、落ち着ぎのなさと表裏一体となっているわけだ。

それから、山田の歌曲やオペラを支配する、彼の日本語への作曲の流儀にも注目してみよう。

山田は考えた。ヨーロッパ系の言語の発音は強弱のアクセントが基本で、その作曲は、強弱を正しくなぞるところからはじまる。が、日本語では強弱の別は定かでなく、かわって重要なのは高低アクセントになる。だから日本語を歌にする場合にも、詞の意味を正しく伝えるには、言葉の高低に旋律の上がり下がりを正しく対応させねばならない。

 

 

 

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