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團伊玖磨の歩んだ道

片山杜秀

 

團伊玖磨は大田黒元雄の『西洋音楽史』を読み、近代日本が作曲の分野でまだまだ西洋に劣っていると教えられ、そこに志をたてたという。つまり彼は、ただやむにやまれず音楽を作ってみたいので作曲家になるといった素朴な人々とは、出発点からして大いに違っていた。おそらくそこで彼を律していたのは、世界に於ける日本入の格をあらゆる分野で高めてゆく作業の、その一翼を担いたいという、言わば士大夫としての自覚であった。

團のそんな心持ちは、もしかして彼の血筋に由来するのかもしれない。團の祖父、琢磨は、明治初年、岩倉外遊使節の一員として渡米し鉱山学を修め、この国の炭鉱開発事業の中心的ひとりとなって、三井財閥の、ひいては近代日本経済の礎を固めた人であり、また母方の大伯父、金子堅太郎も、明治初年に渡米して法学を学び、井上毅、伊東巳代治らと其に大日本帝国憲法を起草して、近代日本を法制度の面で方向づけた人である。結局、團伊玖磨は、祖父が経済の分野で、大伯父が法の分野でそれぞれ成し遂げたことを、芸術の、それも音楽の分野で追い求めてきたのだろう。

だが、團とその祖父や大伯父の世代とでは、幾らか事情は異なっていた。祖父や大伯父は文明開化期に出でて道なきところに縦横無尽に道をつけられたのだけれど、團が昭和初期に作曲を志したときには、既にその分野には先人たちの付けた道が一応はあった。だから團の仕事は、先人から何を継承し、何を否定し、また彼らに何を補うかという選択や決断を必須とした。

さて、そこで團が学び、批判し、ついには乗り越えるべき先人として真っ先に発見したのは、どうやら山田耕筰であったようである。

言うまでもなく山田は日本の洋楽の大先達で、團の直接の師のひとりにもなる。その音楽の魅力は、やはり表情豊かな歌謡性に支えられているだろう。それは山田の場合、声楽曲に限らず器楽曲も同様である。彼の極めて柔軟で叙情的な旋律は、それまでの唱歌的な生真面目一本槍の音楽とは一線を画し、近代人の繊細な感情をより切実に表出しえた。

そしてそういう師のうたごころ一杯な側面を、團はまぎれもなく継承している。たとえば『ひかりごけ』を思い出そう。彼のオペラの中ではもっとも無調的で「うた」から遠いと一般に目されているこの作品でさえ、全曲を支配する四音のモットーは、二度や三度というごく狭い音程を行き来する、何か古代のまじない歌のような、いかにも「うた」らしい音型であって、いわゆる鋭角的、器楽的な無調音楽のフレーズとはだいぶ感触を異にしている。そこでは、人間の自然なうたごころが依然尊重され、玉座を占めている。ストラヴィンスキーの「心臓の鼓動があってはじめて生命がある如く、リズムがあってはじめて音楽がある」との名セリフをもじれば、團に於いては「脳波の高低があってはじめて人間がある如く、旋律の高低があって云々」ということになるのだろう。それはむろん山田も同様であり、その意味で團は山田の徒弟なのである。

それからもうひとつ、團と山田とを力強く相結ばせるものにオペラヘの執念がある。

山田の自伝『若き日の狂詩曲』から引こう。

「日本を音楽的に育てるには、交響曲や室内楽という純音楽よりは、オペラや楽劇のような、劇音楽にホるのが捷径だと私は考えた。ロシアの国民楽派もその路を通じて樹立されたのだ。世界にもちょっと類のない、歌舞伎という、一種のオペラのようなもので育成されてきた日本だ。

 

 

 

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