それらが、たんに音楽人としての彼ばかりでなく、彼の広汎な知識と豊富な体験、そして幅広い交友ぶりを、一層広く人びとに印象づけるようになったことは云うまでもないが、とくにテレビ番組を通じては、オーケストラについてより深く識る機会を得ることになり、彼のオーケストレーションの技法にも大きくプラスするところがあったことは、その間に完成された「ひかりごけ」の総譜からも見ることができる。なお、彼の創作ジャンルとしては予想以上に出足の遅かった室内楽も、1973年の「ヴァイオリンとピアノのためのファンタジア」に始まったといってもよいであろう。現在ではかなりの数にのぼるが、それらが特定の演奏家を想定して書かれていることは、むしろ当然かもしれない。また、2曲の「ヴァイオリンとピアノのためのファンタジア」には、ともに管弦楽版もつくられており、それが現在まったく空白となっている協奏作品のジャンルヘの先駆となることを望む声もある。意外なのは、1983年のピアノ組曲「三つのノヴェレッテ」が、彼の唯一のピアノ曲となっていることであろう。これらのジャンルについては、今後の彼の動きに注目して行きたい。
さて、「ひかりごけ」に続くオペラ第5作は、1975年の「ちゃんちき」であるが、水木洋子のこの作品のオペラ化は、実は第3交響曲完成の翌年である1961年にすでに試みられていた。そして、一旦は着手されたが、場面の構成という重要な難問に直面して筆が中断されていた。10余年を経てそれが復活したのは、「ひかりごけ」の完成がもたらしたオペラ書法に対するひとつの自信によるものと云えよう。再びその筆をとった時、彼は過去のスケッチも破棄し、新たな構成によってそれをすすめた。しかも、彼はそこで、もうひとつ重要な姿勢の転換もみせたのである。それは、「楊貴妃」にもわずかな例外は見られるが、それまでの基本としてきた台本における原作尊重を、原作者の諒解のもとに彼自身がオペラ台本もつくるという形に転換したのである。歌劇のための台本作家というジャンルが残念ながら皆無ともいえるようなわが国において、歌劇化するにふさわしい原作を探してそのまま用いるということは、たしかにひとつの望ましい解決策であったとはいえるが、それにふさわしい素材を発見するにも膨大な労力が必要とされるし、しかもそれほど数あるとは考えられないという状況の中では、ひとつの限界が迫ってくるのは当然の結果であったかもしれない。「楊貴妃」のあと「ひかりごけ」までに10余年を要したのは、まさに素材発見のために必要な時間であったともいえるが、「ちゃんちき」では、原作に深い愛着をもつがゆえに、あえてオペラのための台本は新たに求める必要があるという結論に達したのであった。オペラというものに対する彼の理念が、ある意味で音楽が文学から独立し、音楽と戯曲とのそれぞれの構成が、たとえ対立しながらも、一体化した音楽作品を生みだすというところにあったとすれぱ、それはひとつの必然であったかもしれない。もうひとつ、「ちゃんちき」で新たに加えられた要素は、週去に「聴耳頭巾」で太鼓、「楊貴妃」で胡弓が用いられているとしても、交響曲などの交響的作品でもそうであったように、スタンダードなオーケストラというものをきわめて強く尊重してきた彼が、「ちゃんちき」で三味線やある種の打楽器を加えたということである。もちろん、それもこの素材の存在をむしろ目然なものとするために必要に迫られたからであり、戦後の日本の音楽界でひとつの傾向ともなったオーケストラヘの邦楽器の導入とか、多彩な打楽器の時には乱用とも思えるほどの重用とは、まったく一線を画するものであったことはいうまでもない。