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しかし、そうした視点に立ちながらも、彼のオペラに対する態度が、つねに音楽の本質的なところにおかれてきたことはまちがいあるまい。かつて「ひかりごけ」の上演にあたって、彼は、“オペラは、観衆の情感を誘導し、規制しようとする劇音楽とは全く質の異なる、音楽でなければ存在の意味をなさず、音楽が音楽であるための確固たる条件が、構成にある事は言を俟たない”と述べており、また“オペラにおける文学は、音楽の内臓するエネルギーの発展を規制し、妨げる筋であってはならず、音楽目体の構成を深所で支える哲学でなければならない”とも主張している。これは、すでに劇音楽の作曲にも豊かなキャリアをもっていた彼だからこそ到達し得た“オペラが、いささかも劇音楽であってはならない理念”であり、そこで学んできた具体的な技法であったにちがいない。その「ひかりごけ」の音楽に重要な関係をもっているのは、1965年のふたつの交響曲の中のとくに第4番であった。第4、第5の2曲の交響曲は、ほとんど併行して書かれた姉妹作品であるが、かなりの対照をしめすものともなっている。第4番は、それまでの交響曲でも課題とされてきた音楽のフォルムをさらに徹底的に追究したものであり、初めて4楽章の形がとられた。もちろん、それは、たんなる表現形式の追究だけを意味するものではなく、主題に内藏されるエネルギーのフォルムヘの発展の可能性の追究から到達したものであった。そしてそれは、第3交響曲を通じて手中にした新たな音組織、そして音響と音色の世界に足を踏みいれていた彼が、それをいかしてヨーロッパ的な4楽章交響曲を作曲しようとしたものであり、一見伝統的な表現形式への後退は思わせるが、そこに見られる形式的な安定や均衡は、それを国際的にも最も歓迎される作品としている。それとは対照的に、第5交響曲の方は、明らかに第2交響曲の延長線上にあり、それにあい通ずる自由さや柔軟さが求められている。構成は、緩徐楽章を欠いた3楽章からなるものといえるが、それは、第1楽章に通常の緩徐楽章に与えられるような浮情性がそなわっているからであろう。もっとも、抒情性は彼の音楽にあるひとつの特性とも特質ともいえるものであり、それが根底をなし、形式的には厳格さを求めながら、一方でより自由で豊かなリリシズムの拡がりを思わせるこの作品では、明確に調性的なものとなっている終曲に、変奏曲の形式が与えられている。

この50年代末期から70年代にかけての彼の創作と活動は、きわめて活発なものがあり、3曲の交響曲をはじめとする多様な管弦楽作品が書かれる間にも、いくつかの歌曲が生みだされる一方、1959年の皇太子、美智子妃(今上天皇、皇后)ご成婚のための「祝典行進曲」のような吹奏楽曲も書かれるようになったし、代表作ともいえる1963年の「岬の墓」をはじめとする数多くの合唱のための作品があいついで作曲された。とくに、翌年「岬の墓」の伴奏が管弦楽化されたのを契機とするように、合唱と管弦楽のための作品がその中心をなし、それとともに独唱と管弦楽のための作品も書かれ、ひとつのジャンルを充分に形成し得るほどの実りをみせていることは忘れ難い。折りしも1964年には、東京オリンピックが開催されており、70年には大阪万国博も開かれて、日本は、国際的にも広くアピールし、ある意味で得意の絶頂にあった。そうした中で、團はそれらのための作品も生みだす一方、64年には、現在も続けられている随筆「パイプのけむり」の連載が始められ、70年には、その後5年羊にわたって続けうれた日本テレビ系の読売日本交響楽団との番組「だんいくまポップス・コンサート」の放映も開始された。

 

 

 

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