第1交響曲のあと、そのジャンルでは、1954年に結成された“三人の会”の第1回演奏会で発表された「ブルレスケ風交響曲」(のちにISOLANAと改題)を経たのち、1956年には東京交響楽団の委嘱による第2番変ロ調が、そして1960年には、のちに第3番となる「2楽章の交響曲」が完成されているが、そこには、明らかにふたつの傾向を見ることができる。第2番は、ヨーロッパの伝統的な4楽章交響曲の基本的理念を、より自由に展開した3楽章によるものであるが、「夕鶴」のアメリカ初演に際してニューヨークで着想された第3番は、近代的な都市での抽象的でコンパクトな構成による対照的な2楽章によっているということもそうであるし、さらに調性的な第2番に対して、第3番では、実験的な方向をめざしてはいないとしても、調性からの離脱が試みられ、4度を重要な要素とし、音色的にもモノクロマティクなものに向かっているからである。そして、これら2曲での在り方は、その後の2作にも影をとどめることになる。
一方、オペラにおいては、「夕鶴」につづいて1955年の「聴耳頭巾」と58年の「楊貴妃」が生みだされ、彼がヨーロッパでふれた多彩なオペラからの影響を思わせるグランド・オペラ風の方向が明らかにされたが、それらを通じてめざされてきたことは、やはり、すぐれたオペラの前提となるべきすぐれた台本を手中にすることであり、「楊貴妃」の一部に例外はあるとしても、基本的に原文尊重の姿勢が貫かれていた。それについては、彼は、オペラのために原作を変形させることは、原作のもつ輝きを矢わせるおそれがあると述べているし、近代のオペラが、音楽、文学、演劇等の綜合にあるという本質的な理念にもとづいて原作に近づきつつあるという見方を主張してもいる。そして、彼の歌劇作品をさらに高い位置におくことになった1972年の第4作「ひかりごけ」においては、1954年3月に発表された武田泰淳の散文と戯曲という2部分の形をとった同名の作品から、戯曲の部分だけを原文のまま用いて作曲したのであった。ここできわめて重要なことは、散文の部分をまったく省略することによって、たとえばマックス・フォン・シリングスの1955年のオペラ「モナ・リザ」のような現代から過去を回顧するようなスタイルをとらず、本質的な問題を明確にクローズ・アップし、作品の密度を高めたということであろう。もちろん、それは、演劇とオペラの双方で伝統的な通念とされてきたともいえるドラマティクなものの構造理念、すなわち時間的な圧縮や表現の凝縮にも合致するものといえるが、一方で、原作の戯曲の第2幕での時間的設定を、第2次大戦中から戦後に移すという変更はなされている。もっとも、これは、つづく1975年の第5作「ちゃんちき」にも云えることであるが、その原作にある普遍的な人間性の問題を重要視し、それを現代人の時間に近づけることによって、オペラそのものからさらに社会的、人間的な示唆をもたらすということが考慮された結果といってもよいであろう。もちろん、こうした人間的な問題に対する考え方は、すでに「夕鶴」から一貫してとりあげられてきたものであり、彼のオペラがつねにそうした理念の上に生みだされているということは、作曲家としてという以上に、人間生活の上できわめて広い視野をもった彼ならではのひとつの必然的な在り方をしめしたものといってもよいであろう。