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もちろん、1949年の「夕鶴」をはじめとする木下順二の作品や劇団『前進座』の作品のために書かれた数多くの演劇付帯音楽の存在も、それ以上といってよいほどに重要であることは云うまでもあるまい。なお、1948年には、平和の鐘建立会主催の管弦楽曲募集に交響詩「平和来」が佳作入選しているが、それはのちに「挽歌」と改題されている。

ところで、彼自身にその志向があったことはもちろんであるが、結果的にかなり幅広いジャンルにその筆を拡げているとしても、創作の中核となるものが、すべて交響曲かオペラかに結びついているということは、ある意味でチャイコフスキーにあい通ずるものがあると云えなくもないが、歌曲に始まり、それに管弦楽を加えるという形で最初期を形成した彼は、その頃からすでにそれを示唆していたようにも見える。そして、1949年には早くもその第一歩が踏砂だされた。前年8月からその年1月までに作曲された彼の最初のシンフォニー、「交響曲イ調」が、NHK放送25周年の記念事業のひとつである管弦楽曲懸賞募集で特賞(第1位)を獲得したのである。この時、のちに黛敏郎とともに“三人の会”の僚友ともなった芥川也寸志の「交響二章」も選ばれ、第1位をわかちあうことになったが、興味あることに團作品は、後に「交響曲第1番イ調」と名を変え、芥川作品は「交響管弦楽のための音楽」と改称し、ともに数多く演奏されるようになった。これら2作の初演は、1950年3月21日に近衛秀麿指揮の日本交響楽団(翌年NHK交響楽団と改称)によってなされている。この最初の交響曲で彼がめざしたものは、伝統的な4楽章交響曲のもつ要素を単一楽章の中に包含させるというところにあったが、必ずしも交響詩的な作品を意図したものではなく、その背景には、時間的な制約とともに、当時の日本の音楽的土壌などへの配慮があったようである。なかでも、聴衆の側の受容ということに対する意識は、けっして迎合という意味ではないが、重要なもののひとつであり、音楽がもつ社会的な役割りという点からも忘れられないものとなっており、その後彼の作品あるいは作風の動きが、なんらかの形でそれとかかわりをもっていることは、容易に見ることができる。いずれにしても、新世代の有為の作曲家として、彼が、当初から伝統ある音楽形式の追究を強く意図していたことはまちがいないが、一方、この第1作で、彼は早くも充実した3管編成のオーケストラを用いて将来への展望をひらきながら、その用法が過重となった部分があることも認めており、それは1956年から翌年にかけてのロンドン滞在中になされたこの交響曲の改訂の主要な課題ともなっている。

こうしてひとつの柱となる交響曲は、その第一歩が踏みだされたが、1952年には、もうひとつの柱の第1作となる歌劇「夕鶴」が、大阪で初演された。オペラ作曲において、最も大きく、しかも最初の課題となるのが、素材と台本の選択にあることは論を侯たない。彼は、それを劇の付帯音楽での体験をいかして、ほとんど理想的ともいえる形でクリアした。そして、それによって、聴衆に歓迎されるばかりでなく、レパートリーとしても定着し得るオペラを生みだし、予想以上の成功を収めたことによる自信は、明らかにそれに続く作品に結びついている。交響曲においてもオペラにおいても、團は、その第1作において確実な評価を得たのであり、これは、作曲家にとってきわめて幸運であうたといえるが、その作曲の基盤と理念の確かさをみれば、それは当然の結果といってもよいであろう。とくに、さらに筆を加えているとはいえ、すでに650回といわれる公演を重ねてきた「夕鶴」が、日本の音楽史上にしるした足跡は他の追随を許さぬものとなっている。

 

 

 

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