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作曲家・團伊玖磨の軌跡とその作品について

藤田由之

 

作曲家としての團伊玖磨の創作は、明らかに人間團伊玖磨の投映であり、そのまま彼の魅力を物語るものともなっている。自身をみずから“團さん”と呼ぶ親しみ深い彼は、国内ばかりでなく、広く世界各地を闊歩し、その文化と文明のそれぞれに驚くべき洞察力をしめし、あらゆるものに深い関心と探究心をみせてとどまるところを知らない。そうした彼が、音楽についても、きわめて幅広い視野と見識をそなえているのは、当然のことといってもよいであろう。

1924年4月7日東京に生まれた團伊玖磨が音楽にふれた機会は、かなり早くからあったにちがいないが、ピアノを習いはじめたのは1931年、7歳の時であったという。日中戦争が始まった翌年の1937年には作曲を独学で身につけはじめ、39年に山田耕筰の励ましをうけて作曲家をめざすようになった。しかし、1941年には日本も第2次大戦に加わるようになり、不幸な時代を迎えた。翌年東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)に入学した彼は、下総皖一に和声学と対位法を、橋本国彦に近代和声学と管弦楽法を、細川碧に楽式論を学んだが、学外ではもちろん山田耕筰からも実質的な作曲指導をうけた。その頃書かれたのが、「小諸なる古城のほとり」や「しぐれに寄する抒情」といった初期の歌曲であるが、そこに選ばれている詩が、島崎藤村、佐藤春夫、それに北原白秋らによるものであるということは、その時代を思わせるとしても、この時期から彼がすでに個性的なリリシズムをみせると同時に、伴奏ピアノにも創意をしめしていたことは見のがせない。その間に、戦況は悪化の一途をたどるばかりであり、1944年には、東京音楽学校生14名と共に陸軍戸山学校軍楽隊に入隊したが、翌年8月15日の敗戦を迎えて復員、母校に帰って46年3月に卒業し、さらに2年問にわたって研究科に在籍して研鑽を重ねた。北原白秋の詩による歌曲集「六つの子供の歌」は、終戦の年に生みだされ、翌年には「五つの断章」も続いている。

第2次大戦末期にドイツの収容所に抑留されていた近衛秀麿が、敗戦とともに帰国した。1926年から10年にわたって新交響楽団(現NHK交響楽団)の常任指揮者をつとめたのちヨーロッパに渡った近衛は、欧米やロシアで100をこえるオーケストラや歌劇場に客演し、モーツァルトの「魔笛」ベートーヴェンの交響曲や「フィデリオ」のエクスパートとしても知られ、一時はアメリ力への永住も考えたようであるが、帰国して戦後の日本の楽壇の再建に力をつくした。音楽的にオーケストラをひとつの理想の世界と考え、その表現機能に憧憬さえ抱いている團は、当然のことながら近衛のもとで指揮法と管弦楽法を学んでいる。実際に、終戦後の團は、歌曲の伴奏をオーケストラ化することにも向かっており、管弦楽付き歌曲「二つの浮情詩」(第2曲は「小諸なる古城のほとり」)は、1946年に日本音楽連盟委嘱コンクールに入選している。彼の歌曲の中で最も広く愛されるもののひとつとなった「花の街」は、47年の作品であり、翌年から53年までは、NHKで数多くの番組音楽を書いているが、それは、1952年から始まった100本をこえる映画音楽の作曲とともに、彼の書法や技法に多様な面で熟達をもたらすことになったものと思われる。

 

 

 

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