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岐路に立つ愛の伝道師?広上淳一に期待する

 

森泰彦

 

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広上淳一がレナード・バーンスタインに学んだことがある、というのは、たぶん偶然ではない。小柄で常にエネルギーに満ち満ちており、指揮台の上ではアクションが大きいことなどは、表面的な類似でしかなく、そのくらいのことはちょっとバーンスタインに憧れれば誰にでもありうる。もっと本質的に似ているのは、演奏中の音符のひとつひとつを本気で愛しており、音符たちをカー杯抱きしめようとしているように見え、またそう聴こえること。だからこそどこへ行ってもその愛をオーケストラや聴衆のひとりひとりと分かちあおうとする、いわば「愛の伝道師」となるわけだし、物事や人問に向かい合うときのあのエネルギッシュな言動も、同じところから発していると思える。

この指揮者について書いたのは1回だけ。試しにファイルを開いてみたら、似たようなことを述べているので、その最初の部分を引用してみる。

 

6月18日金曜日、日本フィルハーモニー交響楽団第451回定期演奏会の2日目をサントリーホールで聴く。指揮は正指揮者の広上淳一、曲目は(大胆にも)オール・モーツァルトで、《交響曲ニ長調KV297 (300a)》(旧モーツァルト全集の第31番<パリ>)、ギル・シャハムを独奏者とする《ヴァイオリン協奏曲ト長調KV216》(旧全集の第3番)、それに《交響曲ハ長調KV551》(旧全集の第41番<ジュピター>)の3曲だ。日本人離れした旺盛な表現意欲は今回も健在で、<パリ交響曲>は本来意図された大きな編成をえて、少しも箱庭的でなく、まさに疾駆する。通常の配置ではあるものの、第1・第2ヴァイオリンのかけあいは雄弁に浮き出され、強烈な強弱の対比は入念かつ大胆に遵守される。内声のどんな小さな音符をもほとんど抱擁せんばかりに溺愛しているような指揮者の手で、全曲のドラマには熱い生命が吹き込まれ、たんなる五線紙上の記号として音符が処理されることはまったくない。本当にこの曲を演奏したくてたまらずにプログラムにとりあげたことが、そして今この曲を演奏していることが嬉しくてたまらないことがよくわかる演奏であり、「演奏会の頭に何か軽い腕ならしを」、といったハンパな気分でろくに練習もせずにぞんざいに扱われることがほとんどのこの作品としては、まさに出色と言わなければならない。この指揮者としてはいつものことながら、最初の曲というのに、まるでこの一曲しか眼中にないかのようなハイ・スパート。当然ながら新モーツァルト全集版が用いられており、何年か前に平然とブライトコプフ版で無思慮な演奏をした某若手指揮者とは、才能はもちろんのこと、音楽に対する姿勢に雲泥の差があることをあらためて痛感させる。(「広上、局関、アーノンクール、そしてクナッパーツブッシュ―最近触れえたいくつかの交響曲演奏雑感―」、隔月連載「現代のモーツァルト演奏」第27回、『音楽現代』1993年9月号所収より)

 

 

 

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