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こうした彼らの特徴が遺憾なく発揮されたのが、古典派とロマン派の決戦といわれたユゴーの戯曲『エルナニ』の初日(1830年3月)である。この日、さくらとして雇われたゴーチェは赤いチョッキ、ネルヴァルは緑のチョッキをつけてフランス座の平土間に現れ、ジューヌ・フランスの連中を指揮して、『エルナニ』決戦をロマン派の勝利に導いた。この『エルナニ』革命は、同じ年の7月に起こった七月革命に劣らぬほど、人々の意識に大きな変化をもたらしたといわれている。

しかし、そんなゴーチェもやがて、生活だけの過激派にしかすぎない仲間のエキセントリックな行動に批判的になり、『ジューヌ・フランス』というそのものずばりのタイトルの詩集で彼らの行動を椰楡的に描いたりしたが、だからといって自身がブルジョワ紳士的な生活を始めたわけではなく、ネルヴァルと一緒にカルーゼル広場の取り壊し寸前のアパルトマンに集まって、しばらくは自由奔放な生活を続けた。

しかし、貧困と飢餓と無名に耐えることを彼らに許していた唯一の武器である「若さ」がなくなっていくと、ある者は「名声」に召し抱えられ、またある者は「挫折」に捕えられて、一人、また一人と歯が抜け落ちるようにグルーブから抜けていった。なかにはゴーチェのように文学者として名をなした者もいたが、ネルヴァルやペルリュス・ボレルのように貧困のうちに狂死したケースのほうがはるかに多かった。現在、こうした「ジューヌ・フランス」のセナークルに結集した文学者、芸術家を総称してプチ・ロマンチック(小ロマン派)と呼んでいる。

当時のジャーナリストは、こうした芸術家や詩人たちをボヘミアからやってきた放浪の民ジプシーに似ているという意味で「ボエミアン(ボヘミアン)」と呼び、彼らのライフ・スタイルを「ラ・ボエーム(ボヘミア)の生活」と名づけた。

これが、『ラ・ボエーム』の語源である。ネルヴァルはドワイエネ街の時代の思い出を『ボヘミア(ラ・ボエーム)の小さな城』という散文に叙情的に描いている。

 

グリゼットと学生たちの恋物語

ところで、こうした「ジューヌ・フランス」の連中は女っ気がなかったわけではないが、やはりどちらかといえば硬派で、ブルジョワを憎み、芸術と友情を第とする熱血漢がそろっていた。いっぽう、彼らとはちがって、そうした大袈裟な言動を馬鹿にし、もっぱら女とおしゃれのことだけに関心をもつ軟派のロマン派というのも存在していた。その代表はなんといっても、アルフレッド・ド・ミュッセである。

ミュッセは、1810年生まれだから、世代的にはゴーチェやネルヴァルと同世代だが、非常に早熟だったので、彼らよりも早い時期に、ひとつ上の第一次ロマン派世代の「セナークル」に加わっていた。だが、パリ生まれで軽妙洒脱な感性のミュッセは、ユゴーなどの大袈裟なロマン主義にはついていけず、かといって、ジューヌ・フランスの過激な言動にも嫌悪を感じ、むしろ大金持ちのダンディーたちと一緒になって馬車を乗り回したり、お針子娘とダンスに興じるほうを好んだ。ミュッセは、のちにこうした自らの青春の思い出を『フレデリックとベルヌレット』(1838年)『ミミ・パンソン』(1845年)といった名作短編につづったが、そこで描かれたベルヌレットやミミ・パンソンなどの娘たちこそが、ラ・ボエームのもう一方の極をなすあの明るく元気なグリゼットなのである。

 

 

 

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