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このことは実は特殊な事件に限ったことではなく、対人的な援助に関連することに広くあてはまることだと思います。どの分野でも、適切な対応策は個人を理解し個人が何を必要としているかから明らかになると考えます。

わたしたちの役割について考えると、児童や青年の精神保健でも、犯罪被害者の方に対する支援活動でも、一つ一つの相談に対応することが、個人が必要とする援助を理解し、さらに個別性をこえた援助体制やしくみをつくる土台になる可能性を持っているのでしょう。そして、そうあって欲しいものだと思います。

(精神科医)

 

被害者とイメージ

宮城県警察

佐々木千鶴子

 

私が裁判に関心を持つようになったのは、つい最近のことである。それまでは、裁判所に行ったこともない。ニュースの静止画像やドラマの一場面でお目にかかった程度。もちろん、裁判について考えたこともほとんどない。アメリカには陪審員の制度があるが、日本では裁判官だけである、ことくらいしかわかっていない。ましてや少年犯罪が家庭裁判所で審判されることに特に関心を持っていたわけでもない。

裁判に門外漢の私が被害者支援を仕事としてから、裁判の傍聴をするようになった。初めて法廷へ入ったときの緊張感は忘れられない。黒衣の裁判官や職員、検察官の風呂敷包み、弁護士の姿、入室してくる被告人の姿、暗号のような「第何号ショウ云々」というやりとり。傍聴席は、よほどの事件ではないかぎり、空席が目立つ。法廷見学の学生がたまに席を埋めるくらいである。これが裁判所の法廷というものか…。仕事で関わって初めて知った世界である。

それまで私にとって裁判とはどのようなイメージだったのか。裁判に関して真っ先に思い浮かべたのはお恥ずかしい話だが、長寿テレビドラマの『水戸黄門』のお白州の場面である。最後には御老公様が助さん角さんを従えて、悪漢を裁いてくれる名場面である。私の「公的な裁き」に関して長年つちかわれてきたイメージとはそういう類いのものであった。この二十一世紀を目の前にして、いい大人が、と我ながらあきれたが、日常に関わりのない世界に関するイメージというのはどうしてもテレビなどで接する情報に左右されがちになる。

被害者の場合もマスコミがとりあげなければ、世間に被害者のイメージが伝わらない。個人差があるので、マスコミでとりあげられるイメージ(中傷の場合もある)が先行するのも時と場合によっては問題だが、被害者や遺族の孤立感や疎外感、絶望感、自責感、無力感の深さとて、当事者の方々がマスコミを通じて自らの体験を伝えようとしてきたからこそ、「そういう世界があったのだ」と世間も考えるようになってきた。そういう世界の存在を知らずに、悪意はないものの、いや、むしろ善意から出た言葉であっても、被害者や遺族の心を逆なでしてきた「無知ゆえの言葉が犯した罪」について、考えめぐらすこの頃である。 (臨床心理士)

 

 

 

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