(ウ) 主権説の成立
オコンネルによれば、フランコニア号事件の判決が下された1876年から1900年までの間が、領海の法的性格をめぐる最大の論争期であった(15)。
彼は、当時の学者51人の主張を分析して、領海が沿岸国領域の一部であり、領域主権に服するか否かについて、肯定説と否定説はほぼ拮抗していたと指摘している。しかし、1900年以後、この論争は下火になり、領海が沿岸国の主権に服するという考え方に反対する学者はほとんどいなくなった(16)。従って現在の領海概念が確立するのは20世紀に入るのを待たなければならなかったのである。
1920年代に起こった海洋法の法典化が、この方向に決定的な役割を果たした。ドイツ、米国、日本の各国際法協会及び「領海に関するハーバードロースクール草案」はいずれも領海の主権概念を採用していた。ハーグ法典化会議の専門化委員会報告者のシュキング草案(1927年)では、「国家は、自国海岸に続く海域に対して主権的権利sovereign rightを持つ」(第1条)と定めていたが(17)、1929年の「討議の基礎No.1」では、「国家は、自国海岸をとりまく海域帯に対して主権soverigntyを持ち、この海域帯が領海を構成する」と修文され(18)、1930年のハーグ法典化会議第二委員会報告書付属草案でも「国家の領域territoryは、この条約が領海と定める海域帯を含む。この海域帯に対する主権sovereigntyは、この条約その他の国際法の規則の定める条件に従って行使される」と規定した(19)。1930年以後、ジデル、フィッツモーリスなどの国際法学者も、この法典化会議の起草過程に大きく影響を受けることになる(20)。法典化会議は、領海幅員については合意に達することができず、条約草案を採択することもできなかったのであるが、領海の法的性格について、それが国家領域の一部を構成し、沿岸国は領域主権を及ぼすという考え方をほぼ確立したと言えよう。この時期は、海賊に関する法典化の作業も行われたのであり、この領海制度の確立が、国際法上の海賊行為の法典化にも影響を及ぼしたことは、想像に難くない。次に、項を改めて、海賊行為の法典化を取り上げておきたい。
(2) 伝統的な海賊行為の場所
20世紀に入ると、国際連盟時代に海賊に関する法典化の作業が始められた。