いま一つは、19世紀における領海の法的性格である。当時、領海が公海とは異なり、沿岸国の管轄に服する海域であることは認められつつあったとしても、領海と公海の法的性格の違いは明確ではなく、領海の法的性格は、現在のように排他性を持った主権領域として確立してはいなかったからである。
したがって、公海上の犯罪行為だけが「国際法上の海賊行為」と認められて、国際法の規律対象となり、いずれの国の管轄権にも服するというルールが成立するためには、国際法上、領海が沿岸国の主権領域として確立し、沿岸国の領海においては国際法上の海賊行為の成立が排除されるという過程を踏む必要があった。これは、言い替えれば、領海制度の確立とともに「国際法上の海賊」の存在が姿を現してきたということである。
ここで、国際法上の海賊概念にかかわる領海制度、とりわけ領海の法的性格をめぐる議論の推移を見てみることにするが、そのためには、第一段階として、19世紀中頃までの海洋論争に始まる領海制度の成立、そして第二段階として、領海における沿岸国権能の性格、つまり領海の法的性格をめぐる19世紀の論争に分けて論じることができると思われる。第二段階の論争を引き起こしたのは、これも著名な19世紀後半に発生したフランコニア号事件であった。
(ア) 海洋論争と領海制度の成立
近世初頭におけるグロチウスとセルデンの海洋論争を通じて、狭い領海と広い公開の制度が確立してきたこと、そして、18世紀における領海制度の内容は、主として中立水域の成立であったことは、高林秀雄教授の研究で明らかにされているところであり(6)、また、バインケルスフーク及びヴァッテルの分析をつうじて、18世紀には沿岸国領海の範囲が実効的支配の基準の導入により3カイリとなってきたが、それが沿岸海域の漁業利益を確保するという機能を果たしえないものであったことについては、山本草二教授がつとに指摘されているところである(7)。国際法上の海賊概念の成立については、この中立水域や漁業水域とは異なる領海の法的性格の確立が必要であったのであり、ここで、その経緯を簡単にたどっておくことにしたい。