それを明治天皇は東洋の永久平和のために日本は血であがなった日清戦争の実果を清国へ返しておられるのである。
然しロシヤは益々要塞を固め、又南満州鉄道を全線完成させ、モスクワから鉄道で南満州鉄道に連絡して、モスクワから極東へどんどん軍隊を送ることが出来ていよいよ朝鮮にまで攻め入るようになった。
小さな島国日本ではどう考えて見ても勝算はないが如何ともなし難く、遂に明治三十七年二月十日、大ロシヤ帝国と開戦したのである。
戦は日本軍が百戦百勝で日本軍が勝ってゆくのである。
ここで又天皇の和歌を初めに日露戦争当時のものから―
人間天皇血の叫び(二)
大空(おおぞら)ににそびえて見(み)ゆるたかねにも登(のぼ)れぱのぼる道(みち)はありけり
遠(とお)くとも人(ひと)のゆくべき道(みち)ゆかばおも危(あやう)きことはあらじとぞ思う
ひらくれぱ開(ひら)くるままに思(おも)うかなあらぬ道(みち)にや人(ひと)の入(い)らむと
世(よ)の中(なか)にことあるときはみなひともまことの歌(うた)をよみいでにけり
くもりなき心(こころ)のそこの知(し)らるるはことぱの玉(たま)の光(ひかり)なりけり
くに民(たみ)の千千(ちぢ)にこころをくだく世(よ)をおもいぞあかす秋(あき)の長夜(ながよ)に
世(よ)の中(なか)のことある時(とき)にあいてこそひとの力(ちから)はあらわれにけり
よたたかいのにわの上(うえ)のみ思(おも)う世は花(はな)の木(こ)かげもしづごころなし
とつくにの人(ひと)もより来(き)てかちいくさことほぐ世(よ)こそうれしかりけれ
むかしよりためしまれなる戦(たたか)いにおほくの人(ひと)をうしないにけり
かちいくさ祝(いわい)うなるらむ市人(いちぴと)が花火(はなぴ)うちあぐ音(おと)きこゆなり
日露戦争以後崩御まで(明治三十九年―)
あらたまの年立(とした)ちかえる河(かわ)なみに注連飾(しめかざ)りせし舟(ふね)も見(み)えけり (明治三十九年)
おやのあとしたいてあそぶ若(わか)ごまのをさな心(ごころ)は人(ひと)にかわらず (明治四十年)
まごころをうたいあげたる言(こと)の葉(は)はひとたびきけぱわすれざりけり (明治四十一年)
としどしに雪(ゆき)をかさねて老松(おいまつ)の操(みさお)かたくもなりまさりけり (明治四十二年)
しらつゆを駒(こま)にふませて朝(あさ)ゆけばすすきみだれて秋風(あきかぜ)ぞふく (明治四十三年)
思(おも)うこというべき時(とき)にいひてこそ人(ひと)のこころもつらぬきにけり (明治四十四年)
さしのぼる朝日(あさひ)のかげをあふぎみてくもらぬ年(とし)のはじめをぞしる (明治四十五年)
明治天皇は鎌倉時代より長い武家政治から天皇親政に変る明治維新という変革期に即位され、日清、日露という大変な戦を経験し、然も大勝利を得て日本の国力を世界に示し、開闢以来未曽有の発展をし、世界列強の一つに数えられるようになり、国運を隆昌に導かれたが、明治四十五年七月三十日午前0時四十三分尿毒症のため御年六十一歳で崩御されたのである。(終り)