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詩舞のための日本人物史100

文学博士 榊原静山

 

明治天皇(1852〜1912) ―その2―

 

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日清、日露戦争と人間天皇

国と国とがお隣りで勢力を張り合う結果として争いが生まれるのは人の世のあさましさからだが、明治二十七年八月一日、隣国である清国との宣戦を布告し、いわゆる明治二十七、八年の日清戦争が始まった。国の大きさは全く異なる清国と日本であったが連戦連勝、日本軍が大勝利をおさめて二十八年四月十八日講和条約が結ばれて、日清戦争は終わった。この戦の時代になると天皇の御製もその戦に影響されて大分変って来ているので、一年に一首でなく、日清の役前後のものだけを沢山記載してみよう。

 

人間天皇の叫び(一)(日清戦争前後の御製)

なみ風(かぜ)のしづけき夜(よる)も品川(しながわ)の沖(おき)にかかれるいくさぶねかな

風(かぜ)はやみ吹(ふ)きおろされて夏山(なつやま)のくもふもとをめぐる夕立(ゆうだち)の雲

あつぶすまかさねてもなお寒(さむ)き夜(よ)にとはつみおやのめぐみをぞ思(おも)う

来(こ)む春(はる)をいそぎて咲(さ)くか梅(うめ)の花(はな)けうたちそむる年(とし)の光(ひかり)に

うちいだす高崎山(たかさきやま)の砲(つつ)の音(ね)もしづまりはてて年立(とした)ちにけり

菅笠(すげがさ)ぞ見(み)えがくれする草(くさ)ぶかき夏野(なつの)の道(みち)をたれかゆくらむ

かづしらず仇(あだ)のきづきしとりでをもいさみてせむる銃(つつゆみ)のおと

 

下関条約として日本の全権伊藤博文首相と清国側の李鴻章で、日本と清国との條約として結ばれた講和條約は

(一) 朝鮮が完全な独立国であることを確認する

(二) 清国は日本に遼東半島(大連・旅順のあるところ)と台湾及び膨湖島を割譲する。

(三) 償金二億両(約三億円)を七ケ年で払う。

(四) あらたに沙布、重慶、蘇洲、杭洲を開港する。

というものであった。

ところがこの日本の勝利の條約を結んだことに焼餅をやき、四月二十三日に露国(ロシヤ)、佛国(フランス)、独逸(ドイツ)の三ケ国が手をたづさえて日本国の外務省へ申し入れをして次のような三国干渉をして来た。

『ロシヤ皇帝陛下、ドイツ皇帝陛下、フランス大統領閣下は、日本が清国に要求した講和條約をみるに、遼東半島を日本が領有することは清国をあやうくするのみならず、朝鮮の独立をも有名無実にする。これま将来極東永久の平和に対して障害を与えるものと認める。よってロシヤ、ドイツ、フランス政府は日本政府に向ってその誠実なる友好を表せんがためにここに遼東半島を領有することを放棄すべきことを日本政府に勧告する』

このような勧告文を出している。

当時ロシヤ国は極東に強い関心を持ち、冬凍ってしまうウラジオストックでなく、不凍港の大連と満州がほしくなり、又旅順を陸海軍の重要基地にしようと思い、自国だけでは力が弱いので、中国本土に利権をねらっているドイツとフランスを誘って日本を押えて遼東半島を日本から中国に返させ、日本が取ったら東洋の平和に良くないと言っておきながら自国のものにしたいという下心があった。

大東亜戦争の時も日本が敗戦する旬日前に参戦し、満州から幾万の日本人をシベリヤヘ連れ去り、日本の領土である千島列島を未だに返してくれないのはこの時と同じようである。

いずれにしても実際はロシヤ国は日本から遼東半島を中国に返させておいて中国に向けて日本からロシヤが返させたのであるから遼東半島と南満州鉄道の権益とをロシヤによこせという訳でロシヤのものにし、ステッセル将軍が如何なる国から攻めて来ても三年間は絶対に大丈夫と太鼓判を押すような堅固な旅順の要塞を築き上げ、すっかりロシヤのものにしてしまったのである。

 

 

 

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