先ずここで明治二年頃から西南戦争のあった明治十年頃までの間に作られた御製、何百、何千の中から年間に一作の割で挙げておこう。
人間天皇の御製(一) (明治二年〜明治十年)
ちよろずのかわらぬ春(はる)のしるしとて 海辺(うみべ)をつたふ風(かぜ)ぞのどけき (明治二年作)
ふく風(かぜ)ものどかになりて朝日(あさひ)かげ 神代(かみよ)ながらの春(はる)をしるかな (明治三年)
おさまれる世世(よよ)のためしをみやこ人(びと) 鄙(ひな)もろともに祝(いお)ふ春(はる)かな (明治四年)
日にそむいて氣色(けしき)やわらぐ春(はる)の風(かぜ) よもの草木(くすき)にいよよ吹(ふ)かせむ (明治五年)
年(とし)たちて祝(いわ)うにいとど直(す)ぐなれど 我(わ)が世(よ)の道(みち)をおもいけるかな (明治六年)
祝(いわ)うぞよ仕ふる人(ひと)もほどほどに 道(みち)にたがわぬ年(とし)のはじめと (明治七年)
都(みやこ)にも遠(とお)きさとにもあたらしき おなじ年(とし)をばうち迎(むか)へけむ (明治八年)
新(あたら)しき年(とし)を迎(むか)えてふじの嶺(ね)の たかき姿(すがた)をあふぎ見(み)るかな (明治九年)
深(ふか)きみどり色(いろ)もかわらぬ松(まつ)ケ枝(え)の ときわかきわの末(すえ)祝(いわ)ふなり (明治十年)
明治維新の完成と西南戦争
明治四年七月十四日によ藩を廃し県を置くという廃藩置県の政令が出され、三府七十二県が定まり、明治維新の大業が完成されたのである。
更に明治五年八月二日にま学制を発布し、我が国の教育制度が確立され、翌年一月十日には徴兵令を発布され、内治の改新と共に外国との和親方針も定まり、おもな條約締結国には公館をそれぞれ設け、岩倉具視全権大使を欧米へ派遣して国交を厚くし、日本という国の存在を世界に知らせ、日本国の権威が日を追うてあがって来た。
然し悲しいことは西南戦争がおきたことである。
明治維新の最大の功労者であり明治政府の最も力ある政治家でもあった西郷隆盛が心ならずも賊軍という汚名のもとに、桐野利秋、篠原国幹、村田新八、別府晋介、貴島清、逸見十郎太、永山弥一郎、池上四郎等の血気盛んな若者達により兵を挙げ、明治十年二月十五日に鹿児島より北上して熊本攻撃に向かった。