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詩舞のための日本人物史100

文学博士 榊原静山

 

明治天皇(1852〜1912) ―その1―

 

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十六歳で天皇に。激動時代の船出

明治天皇は嘉永五年十一月三日、孝明天皇の第二皇子として京都で生まれられ、幼名を祐宮(さちのみや)と言い、母は英照皇太后といわれる方である。

万延元年九歳にして皇太子に定められ、睦仁親王を賜り、十五歳の時(慶応二年)父君の孝明天皇が崩御されたので、慶応三年十六歳で践詐(せんそ)(編注=天皇の位を受け継ぐこと)の式を挙げられ、十六歳で天皇となられ、激動の明治日本丸の長(おさ)として船出をされたのである。

同じくこの年の十月十四日、十五代将軍徳川慶喜より大政奉還が行われ、王政復古の業がなり天皇政治が始まることになったのである。

そして慶応四年一月、伏見鳥羽の戦に幕軍は敗れ、薩、長、土の兵士が官軍として西郷隆盛を総参謀に、征東軍が江戸へ入り、江戸城を無血開城し、その年の七月、江戸を東京と改め、九月十日には慶応を明治と改元し、明治二年九月二十日、天皇十八歳にして京都を出発、東京に着御され、江戸城に入られ、この日から江戸城を東京城と改められている。この明治政府が出来た第一期の政治家としては、西郷隆盛、大久保利道、木戸孝允、岩倉具視等が活躍をしている。

これら第一世代の西郷、大久保、木戸の明治維新の三傑は明治十年から十一年にかけて世を去り、第二世代の近代国家としての日本建設の本格的作業は、伊藤博文、井上馨、大隈重信、山県有朋等の政治指導者によって完成されている。

日本の政治は、一人のすぐれた政治家によるヒットラーとかムッソリニー、レーニン等のようにリーダーシップを発揮した独裁政治ではなかった。ある程度の能力を持った指導者格の人々が談合し、慎重に根まわしをして政治を行ったもので、憲法の上で天皇を『国の元首』にして、統治権を総攬された現人神(あらびとがみ)というような風に見えるが、実際は第五〜第十六條に法律の裁可、帝国議会の召集、衆議院の解散、緊急勅令の発布、文武官の任免、陸海軍の統帥、宣戦、講話條約の締結などの広範な天皇の大権事項を列挙すると同時に、その統治権は『憲法の條規によりて之を行う』と規定して天皇の大権が無制限のもので無いことをうたっている。

このように日本では、一方では天皇を絶体者で神と讃えつつも他方では、天皇の統治権の濫用を厳しく戒め、立憲政治の本質が天皇権の制限と民権の保護にあることを力説している。実に日本がほんとうの意味では民主主義の国家であるが、これを一部の軍部の人や神がかりの人達が間違った解釈をしたのである。

昭和初期の軍部や一部の右翼の人々によって激しく非難された美濃部達吉氏の“天皇機関説”が実は伊藤博文流の解釈にもとづいていることは、今日になってこれが正しかったと誰もがうなづく、日本の立憲君主国の政であると首肯出来るのである。

日本天皇はこのように憲法上の裁権が制限されており、天皇は親政で大権の行使者でなく、裁可者である。

この解釈の本旨を知らず、一部の政治家が大東亜戦争の責任を昭和天皇に押しつけているが、これらはみな日本の明治維新の、最初の憲法の精神を知らないからである。

さて私が人物史を書くに当って、大勢の日本の天皇の中でどうしても書きたいのは明治天皇である。その理由は、明治天皇はすばらしい歌人であるからである。そしてその歌の中に温い人間性が髣髴(ほうふつ)として漂っているからである。そこでこれから人間天皇と呼ばせて頂くことにする。そして天皇の歴史を書きながらちょいちょい歌を入れて、天皇を味わいつつ記述する。

 

 

 

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