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'01剣詩舞の研究 7] 一般の部

石川健次郎

 

剣舞「辞世」

詩舞「半夜」

 

剣舞

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吉田松蔭(画像)

 

◎詩文解釈

吉田松陰(一八三〇〜一八五九)が安政の大獄に連座し、死を覚悟して処刑される七日前に獄中から郷里に送ったのがこの詩である。内容は『私は今、国のために一命を終らんとしている。志(こころざし)は半ばであるが、自分の行ないは国家の前途を思ってしたことなので、主君に対しても、両親に対しても決してそむくものではなかった。こうした事は長い歴史の中で、必ずや神仏が明らかにしてくれるものと私は信じている』と云うもので、松陰がその心境を述べたものである。

さて、吉田松陰はいうまでもなく幕末期の勤王派の志士であり、思想家、教育者であった。長州、萩に生まれ、六歳のときに叔父吉田賢良(大助)の養子となった。吉田家は萩藩の山鹿流兵学師範で、松陰も九歳で藩校明倫館に勤め教授見習となり、十一歳で兵書を藩主の前で講じた程だった。二十歳を過ぎると九州、江戸、東北に遊学し、この間に多くの志士と交わり、佐久間象山や水戸の学風に多大な影響を受けた。また嘉永六年にアメリカのペルーが浦賀に来て通商を迫った折、我が国のためにも海外の情勢を探ろうと決心して、翌年下田にアメリカの船が来たときは禁を犯して船に乗り込もうとして失敗し、藩の獄に幽閉された。しかし翌年には出獄し禁錮の身柄となったので、執筆活動や松下村塾を開いて、高杉晋作・木戸孝允・伊藤博文など明治維新の原動力となった人材を育成した。

しかし安政五年、大老井伊直弼(なおすけ)のもとで外交問題や、尊王撰夷派弾圧に腕をふるっていた老中間部詮勝(まなべのりかつ)の暗殺計画にかかわっていたことから捕えられ、幕命によって江戸に護送されて翌年十月二十七日に小塚原で処刑された。

 

◎構成振付のポイント

吉田松陰の三十年という短い生涯の足跡を見ると、死を目前に控えて、その生涯が如何に充実していたかが読みとれる。ただしこの詩は獄中から郷里に送ったものであることと、松陰は和歌で「親思う心にまさる親心、今日のおとずれ何と聞くらん」と述べていることから、彼の肉親に対する深い気配りが伺える。さてそれらのことを合せ考えると、この詩の背景にはもっと激しい自己主張がある様に思われ、それに志が全(まっと)うできなかった憤りもあったであろうから、これらを勘案した剣舞構成としては、詩文の心を次のように置き替えて剣技の効用を計りたい。

まず前奏で静かに登場、抜刀して『自分は今、日本に仇をなす多くの敵とたたかっている』という気持を象徴的な居合の刀法で見せる。承句の部分は、その戦いは次第に死を賭した激しいものとなり、傷つき倒れ、再び攻めては倒れる。転句は刀は折れ、ついに捕らわれの身となるが、ここでは工夫してなおも気迫は激しく敵に立ち向かって行く。結句は『この様な世の中であっても、必ずや神仏は自分の真心を汲み取ってくれるであろう』と静寂さをとり戻し、縛(いまし)められた手を解(ほど)いて正座して合掌する。

 

 

 

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