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詩舞のための日本人物史103

文学博士 榊原静山

 

伊藤博文(1841〜1909)

 

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伊藤博文

 

明治政府を演出・主演

凶弾に倒れるまでの花の生涯

伊藤博文は山口県熊毛郡東荷村の林十蔵という農家の子として天保十二年九月一日に生まれている。後に長門藩の足軽をしていた伊藤という者の養子になったので伊藤の姓になっているのである。幼名は利助のち俊輔で博文というのは諱(いみな)で号は春畝、或いは滄浪閣主人と言っている。

幼年の時から学問を好み、萩の法光恵連に学び、また久保五郎左衛の塾にも通い、更に来島良蔵にも師事し、良蔵は博文が英才であることを愛して吉田松陰の松下村塾へ入れた。そして数ヶ月で色々のことを学び良蔵と共に長崎へ行ってオランダ人に洋式の操練を習い、更に木戸孝允に従って国事に奔走し、萩藩でも彼の才能を認めて士籍に列している。其の後井上馨と共に英国のロンドンへ遊学して見聞を広めていた。ちょうど其の時長州が英、米、仏、蘭、四国の連合艦隊と開戦したことを聞いて驚き、井上馨と共に早速帰国し、その無謀を諌め、この戦いは長州が敗れたので、高杉晋作を助けて和議の成立に力を尽くしている。

やがて明治の世になっては政府の参与になり、明治二年には大蔵少輔、明治三年には米国へ派遣され、明治四年に帰国して工部大輔となり、岩倉具視が全権大使として欧米各国へ差遣された時には博文は全権副使として同行している。

又明治十年の西南戦争には大久保利通を援(たす)けて京都にあって鎮定軍を指揮し、西南役の功により勲一等旭日大綬章を受けている。

明治十四年、大隈重信の後に政府実権を握り、十五年には一年半かかって欧米の立憲制度を視察し、明治十八年の天津(てんしん)事件には自から清国に渡り、李鴻章(りこうしょう)と折衝して天津條約を結び、この年の末には伊藤博文初代内閣総理大臣になり、井上馨を外務大臣にし、まさに明治政府を伊藤博文が一人で演出した観がある。その後枢密院長、帝国憲法の起草発布、日清戦争の大勝利、政友会を組織し、韓国統監府を京城に設け初代統監となり、正に明治時代最大の政治家と人々から仰がれていたが、明治四十二年十月二十六日、満州巡遊の途次ハルピン停車場のホームで安重根(あんじゅうこん)に狙撃され、身に数発の弾丸を受けて六十九歳、花の人生を閉じている。

博文の遺骸は列車で直ちにハルピンを発車し、多くの人々の涙に送られて大連に到着し、日本の軍艦秋津洲に乗せられ十一月一日、眠れる伊藤博文は横須賀に帰っている。

 

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ハルピン駅で撃たれる伊藤博文公

 

豪荘雄大な詩の数々

この人の出身は文人であるように思われているが、実際は武人に負けない気の強さであり、最後も銃弾に倒れるという悲壮な死をとげている。その気の強さを良く詠じている“某楼に飲す”という絶句がある。

 

 

 

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