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◎衣装・持ち道具

武人と詩人の二役に共通する衣装としては地味な茶系、又は黒紋付がよい。扇は振付の見立てに適したもので例えば薄茶の無地などがよい。

 

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南北朝合戦地図

 

詩舞

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福沢論吉(肖像)

 

◎詩文解釈

作者の福沢諭吉(一八三四〜一九〇一)は一万円紙幣の肖像で知られた啓蒙思想家でまた慶応義塾の創立者、更に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず…」の『学問のすすめ』などが特に有名である。ところでこの詩の冒頭に述べられている福沢諭吉の人生行路についてまず述べておこう。彼は天保五年に中津藩士福沢百助の五男として誕生、幼くして父を失い十九歳で長崎に蘭学を学び、翌年大阪適塾に入門、三年後の安政五年には藩命で江戸中屋敷に出て蘭学を教えた、これが後の慶応義塾の出発点になる。一方万延元年から慶応三年までの七年間に、三度にわたり幕府派遣の使節に随行して米国・ヨーロッパを視察、当代の文明に関する最高の知識人として『西洋事情』などを刊行して日本人に多大な影響を与えた。また大政奉還後は中津藩や新政府からの禄をはなれて在野の立場を守り、明治元年に芝に慶応義塾を創設した。言論・著作活動としては、明治六年に「明六社」を起し、新日本の国民精神の変革をめざして封建思想を鋭く批判して近代合理主義を唱えた。前述の『学問のすすめ』も人間平等宣言として人々の心をとらえた。明治十年代は自由民権運動が激しくなるにつれて福沢は国権優先・官民調和を説き、明治十五年に「時事新報」を創刊して論陣をはる。更に十八年には「脱亜論」を発表して対外進出の先取りを容認して大資本の構想を説いた。

さて福沢諭吉は明治三十四年に六十八歳で没したが、この詩が作者のどの時点で詠まれたかは不明にしても老境を迎えた諭吉が過去を振り返って自分自身を見詰め直しているのが興味深い。さて詩文の意味は『人生を振り返ってみれば、ただ働き詰めの苦労の連続だった。その間には幾度となく春がめぐってきて年をとったが、四季おりおりの景色を楽しむ暇もなく、ただあわただしく時は過ぎて行き止どめるすべもない。春や花や時の流れを惜しむ心境は、やっと髪が白くなる頃にその大切さに気づくのである』というもの。

 

◎構成・振付のポイント

人生観の一端が描かれている作品だが、テーマの“花を惜しむ”を重要視して青春時代を悔いているわけではない。福沢諭吉ならずとも、若い世代をただがむしやらに働いた人達はそれなりの充実感はあったのだから、舞踊構成上で全体が女女しくならない様にしたい。この作品の場合は前述の作者の生き方を参考にして、振付者が筋立てを考えて構成する方法がよい。次にその一例を述べると、前奏から起句にかけて、初老の作者が春の野辺に花を訪ねて登場し情景描写をする、振りには杖や笠を扇で見立てるとよい。承句は、見ごとに咲いた桜に見とれ、幾年も同じ花を咲かせたことであろうと、自分の年齢と比べる様な振りを見せる。転句は多亡に過ごした青春時代に思いを馳せ、その多忙な様子を二枚扇などで抽象的な表現に置き替える。結句は承句と同じ設定に戻り、積極的に花を賞し、更に自分が何時の間にか老いたと云う表現を、足のつまづきなどで感慨にふける様子を見せて終る。

 

◎衣装・持ち道具

前項で述べた様に、舞踊構成による登場人物にふさわしい衣装を考える、勿論女性が主人公(作者役)になることもある。扇の柄や色は振付に準拠する。

 

 

 

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