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'01剣詩舞の研究 6] 一般の部

石川健次郎

 

剣舞「阿部野」

詩舞「花を惜しむ」

 

剣舞

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◎詩文解釈

作者の広瀬旭荘(一八〇七〜一八六三)は江戸末期の漢詩人で広瀬淡窓の弟。日田(大分県)の出身で勤皇の志があつく、堺に塾を設けたり、諸大家との交流で名を高めた。

この詩は旭荘の勤皇家としての人柄をしのばせる作品で、旭荘はかつて南朝の忠臣北畠顕家(あきいえ)の墓所を弔おうと、たまたま堺の家塾の北に近接する阿部野(大阪市阿倍野区)の戦場跡を訪れたときのもので、地名がそのまま表題になった。

ところで詩文に、その名を明記されていない南朝忠義の人、北畠顕家について述べておこう。

剣詩舞の世界で南朝の英雄と云えば楠正成の独壇場だが、延元元年五月二十五日に正成が湊川で自刃し、後醍醐天皇をはじめ朝廷側の百官が叡山の東、坂本に移った。そして京都市中に本陣を構えた足利尊氏との間に激しい攻防戦を展開したが官軍は敗れ、名和長年(なわながとし)も戦死した。吉野に脱出した天皇は京都奪還を期待して、先に功績のあった北畠顕家を陸奥(むつ)から招いた。顕家は鎌倉で足利義詮(よしあき)を討ち、延元三年正月には美濃で足利軍を破り、伊勢から奈良に軍を進めた。しかし奈良・般若坂(はんにゃざか)の戦いでは高師直(こうのもろなお)の軍に破れ、顕家は河内(大阪)に逃れ、ここで弟の顕信(あきのぶ)と兵を立て直して、先ず天王寺の細川顕氏(あきうじ)を破った。だが摂津(せっつ)・和泉(いずみ)(大阪)の辺りは足利軍の守りが堅く、五月に入って高師直・細川顕氏の連合軍が北畠顕家の軍を和泉の堺浦(さかいのうら)に攻めた。

奥州からの長期の旅戦に消耗しきった顕家軍は破れ、顕家も石津(いしつ)川の付近で戦死した。享年二十一歳、なお顕家は「神皇正統記」を著わした公卿・北畠親房の長男である。

詩文の内容は『いにしえに英雄たちが戦った跡をしのべば涙をそそるものがある。彼の北畠顕家も、この地で竜虎の如く負けずおとらずの戦闘を展開したのであろうが、今は空(むな)しい夢となってしまった。自分はその南朝の忠臣(北畠顕家)の墓をたずねようと思って古戦場(阿部野)を訪れたが、野原を吹く秋風に蕎麦(そば)の花は倒れて、無惨なし風景が心に滲(し)みた』というもの。

 

◎構成・振付のポイント

作者が、偉人・賢人の墓や因縁のある場所を訪れて、その霊を弔ったり、またその偉業を讃えるといった詩文構成は漢詩によくあるパターンであり、この作品もその一例である。しかし前項でも述べたように、南朝の忠臣北畠顕家の事績が、それ程に知られていない事と、作者は阿部野の原で、彼の墓に詣でたのか、または探せなかったのか判然としない点である。従って振付の基礎となる全体の構成は、先ずしっかりと固めることが大切である。顕家の最後の合戦の経路をたどってみると、「天王寺」「阿部野」「堺浦」「石津」となるので、剣舞としての見せ場も計算に入れて構成例を考えてみよう。

当時は騎馬戦などが盛んであったから、前奏から顕家役で馬で登場。天王寺の勝戦の様子をおおらかに演じ、承句からは激戦で負戦の様子、例えば矢を受けて落馬するなどの変化を見せて倒れる。後半は鉢巻たすきを取って作者に変身し、秋風を笠(扇の見立て)で厭うような仕ぐさを見せながら墓を探す振り、風に吹き飛ばされた笠の辺りの、折れたそばの花を起し、やがて墓は見出せないままに野原の中で死者の冥福を祈って退場する。

 

 

 

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