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詩舞のための日本人物史101

文学博士 榊原静山

 

乃木希典(1849〜1972) ―その2―

 

 

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水師営の会見。写真中央(左)乃木将軍(右)ロシア軍ステッセル将軍

 

苦戦つづく旅順攻略

日露戦争が勃発(明治三十七年二月十日)した半年後の八月二十日に、ロシアが“不落の要塞”と誇る旅順をめがけた日本軍の攻撃が開始された。乃木将軍率いる第三軍の間断無き猛攻に敵軍もよく支えた。二十二日、我が将士は悉(ことごと)く肉弾となって敵の保塁に身を投げつけ、戦友の屍を踏み越えて突撃し、盤龍山東保塁を奪取した。これに力を得た我が軍はここぞとばかり強襲した。しかし敵も頑強に抵抗し、四日問にわたる死闘も遂に功を奏するに到らず、我が精鋭の数は日ごとに減り、残るは僅か三大隊ばかりになってしまった。ここで将軍は恨みを呑んで攻撃を中止せざるをえなくなった。

強襲策をやっても抜けないので、今度は正攻法をとることにし、坑道を穿ち、一歩一歩敵塁に近づく方法をとったが、これも敵に発見されて連日敵弾の洗礼を受け、毎日何百人という戦死者を出しつつ根気よく作業を続けた。十月下旬には敵の外堀二百メートル前まで達し、将軍は十月二十六日から四日間、猛烈な砲兵戦を展開し、三十日に一斉突撃を強行した。しかし敵の防戦力は強く、東鶏山砲台に一度は踊りこんだものの、忽ちにして猛烈な逆襲を受け、そのうえ退路を断たれて全滅し、屍山を覆ったために山形改まると言われるほどの死者を出し、第二回目の正攻法も空しく苦杯を喫せざるを得ないことになった。

この有様を知った日本の国論は沸騰し、日清戦争では旅順を一日で攻撃したではないか、第一軍、第二軍が連戦連勝で輝かしい戦果をあげているのに、第三軍は一ヶ所に半年も動けないでいるのはどうしたことであるか、と心ない輩は叫び、乃木将軍の邸宅の中へ石を投げたり、悪罵を浴びせたりする者もあった。

 

攻撃目標を二〇三高地に絞る

乃木将軍は銃後の毀誉褒貶(きよほうへん)など耳にせず、工兵による保塁爆破、第三回目の総攻撃を計画したが、旅順の要塞があまりにも頑丈で、露軍はコンクーリートの中から銃火を撃ち、日本軍は体丸出しで戦うので、死者が幾倍も日本軍に多いのはやむを得ないことで、乃木将軍は残念ながら正面からの攻撃では不可能と知り、今度は二〇三高地と呼ばれる高地(丘)を取り、その横から敵陣を攻める戦法に変更した。

露軍もこの高地の重要性はよく知っているので、大軍を投じて守っている陣地であった。乃木司令官は第一師団に二〇三高地攻略の命令を出した。二十七日より攻撃開始、二十時間、息もつかせぬ戦法で翌日の夜半、高地の大半を占領したが、敵の猛逆襲にあって、遂に奪還されてしまった。乃木将軍は第七師団を増派し、山頂の一角を占領したが、又もや奪還された。(この時の戦闘で将軍の第二子、保典少将は、二〇三高地の中腹で壮烈な戦死を遂げている)

満州方面総参謀長の児玉源太郎大将も旅順へ来て将兵を督励された。そして十二月五目、遂に旅順最大の陣地二〇三高地を、沢山の日本軍兵士の血を以って完全占領を成し遂げたのである。

 

高地占領、しかし晴れぬ将軍の心

以後、戦況は日本軍に大きく幸いし、遂に明治三十八年一月元旦に、ロシアは軍使を送って降伏を乞うてきたのである。

明治天皇はこの報に非常に喜ばれ、早速乃木大将に“敵将ステッセルも祖国のために戦って敗れた敗軍の将である。

 

 

 

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