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◎衣装・持ち道具

地味な色の紋つきに袴、稽古衣と重ねてもよい。鉢巻を途中から使う場合はあらかじめ畳んで仕込んで置く。扇を、水の流れや馬の鞭などに使う場合は銀の無地や水流の抽象模様などがよい。

 

詩舞

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◎詩文解釈

作者の李臼(七〇一〜七六二)は盛唐を代表する詩人で、都で玄宗皇帝に仕えた期間を除いては多く遍歴(へんれき)の旅に費し、自然の山河を詠い、また日々酒を愛しては詩を作った。

この詩も、李白が越中(越の国の都で会稽(かいけい)のこと現在の逝江省招興県)を旅した折に、春秋時代末期の呉越の戦いをしのんで詠んだものである。詩文の意味は『春秋時代の越の国の王である勾践(こうせん)は、ついに宿敵の呉を打ち破って凱旋した。従軍の勇士たちは故郷に帰り、王から賜わった錦の衣服を着て勝利に酔い、宮中の女性達もまた花の様に着飾って春の宮殿を賑わしたことであろう。しかし今のこの地には昔の面影もなく、悲しい声で鳴く鷓鴣(しゃこ)(うずらに似た雉の一種)が飛びまわっているだけである』というもの。さて越王の勾践が呉を破ったのが西暦前四七三年十一月、それに李白がこの詩を詠んだのが推定で西暦七五〇年頃と思われるから、この事件は当時より約一千二百年も昔のことになる。

 

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会稽山にある越族の神(竜神)の社

 

◎構成・振付のポイント

この詩文を分析すると、結句だけが作者と同時代で、起承転の三旬は一千二百年以前の勾践の全盛時代を懐古したものである。しかも承転句については、詩文の記述以外に具体的な描写が見当らないので、参考のために呉越の紛争について述べて置こう。

この戦いは父子二代、約三十年にわたるシーソーゲーム的なものだった。まず西暦前四九六年に呉王・闔閭(こうりょ)は大軍で越を攻めたが、越軍の逆襲で呉王は毒矢に当り、死の間際に子の夫差(ふさ)を呼び"越王の勾践が汝の父を殺したことを忘れるな"と遺言した。呉王になった夫差は二年後に越に進撃してきたが、その時越王は重臣の范蠡(はんれい)が応戦は慎重にと提言したにもかかあらず敵を侮(あなど)ったために大敗してしまった。越王勾践は残った兵士と共に、越の部族神である竜神をまつる会稽山にこもり、呉王に対して「勾践つつしんで君の臣となり、わが妻は君の妾となりて仕えまつらん」と降伏した。滅亡をまぬがれた勾践は薪の上に寝、朝夕に苦(にが)い胆(きも)をなめて、自分自身に“会稽の恥を忘れるな”と復讐を誓った。『臥薪嘗胆』の二十一年を過した勾践は西暦前四七三年、遂に兵士を引きつれ呉王夫差を姑蘇山に追いつめた。今度は呉王が投降を申し入れてきたが、萢義が反対したために夫差は自殺し、呉越の争いは終決したのである。さて勝利した越王は余勢をかって華中に兵を進めて覇王と呼ばれ、得意の絶頂期を迎えた。

この波潤に富んだ勾践の栄光の一時(ひととき)を、作者李白は、中国の戦いに明け暮れした一千二百年を振り返って、その栄枯盛衰に思いを深めたことであろう。さて、こうした呉越の戦史を参考にして構成振付の一例を次に述べよう。前奏は勾践が会稽山の竜神社に短刀(扇の見立てで)を捧げて祈願をする。起句は短刀を研(みが)き上げると、急に相手(呉王)を激しく攻撃して倒す。承旬は馬に乗って旗をひるがえして凱旋する勾践と、彼を迎える兵士や臣下の大仰(おおぎょう)な拝礼。転句は戦勝の祝宴をイメージして兵士(又は女官)達が扇の舞を披露すると、勾践は大杯に酒を受け酔いつぶれ、結句は作者(李白)に役替りして、悲しげな雉のなき声に気付き飛び去った方向を見送って、詩を詠もうとして扇を広げて見ると一面に竜神が現われていて拝礼する。

 

◎衣装・持ち道具

主体は勾践と李白だから地味な色の着付がよい。扇は銀や金を使い分け、別に振付によって竜の墨一絵など。

 

 

 

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