次第に強くするとき、力で押し出さないこと。地声、かすれ声、ノド声などになるのは、力が入りすぎた証拠です。ノドや腹に力を入れず、共鳴させる場所を体全体に広げるつもりで響かせてください。気持のいいフォルテを出すためには、前々回のこの欄で紹介したストレッチング、筋力づくりトレーニングを地道に続け、共鳴体としての身体を豊かに変身させる必要があるでしょう。
▼徐々に弱く(デイクレッセンド)=強から弱へ。ノドを少しづつ閉めて弱くしたり、“声”を“息”に置き換えて弱くしてはいけません。呼気を腹筋でしっかりと保ち、呼気の量を減らすのと同時に、共鳴の部位を(高声部は主として頭、低音部は主に胸に)絞り芯のある音を支える。
▼硬起声から急に弱く(スフォルツアンド)=起声を強く出し、一転してpに落とす。言葉のあたまを強い音声で始めるので、子音で始まるときは一種の破裂音となり、母音のときは腹圧で(肩の上下による圧力はいけません)ポンと出す。呼気の量を急に下げて響きだけで持続させる。男性吟での硬起声は殆どの場合、1オクターブ下の音からずり上げて出すことが多いが、スフォルツアンドでは初めからその音ズバリで歌い出す。
近代詩などでは大胆な強弱変化を
漢詩の吟詠、殊に絶句のような短い詩で、強弱を誇張しすぎると、ちょっと芝居がかって嫌味に聞こえることがあります。合吟などでpから急激なfに持っていった例を聞きましたが、詩が持つ感情と符合していないと、効果だけが目立ち、かえって逆効果となった例がありました。
漢詩の文が感情を押さえ、また韻を大切にする語を多用している関係で、ナマの感情表現は少ないのです。そこへいくと近代詩、和歌、俳句などの中には実に素直に感情の高ぶりを訴えたものがあります。今後は、これらを吟の題材とする機会が多くなると思われますが、それはそれなりに、音声の強弱と、間投詞などの発声の仕方が重要視されることになるでしょう。
音量調節と切っても切れない大事なものとは“一単語の、節調による分断”と“息継ぎ”それと“間”です。例えば「南朝四百八十寺」という一節を、その流派の節調だからといって「南朝四百八十」で切り、一息あって「寺」では初めて聞く人には解らない。詩文に関係なくいつも同じ節調では頭が硬直化していると言われても仕方がありません。また吟がクライマックスに近づきいよいよ最高潮というときに、大きく長く息を継いだのでは雰囲気ぶちこわし。以上は最低限やってほしくない事例ですが、“間”については高度な技術として、別の機会にお話することとします。