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詩舞のための人物史100

 

乃木希典(1849〜1972) ―その1―

 

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乃木希典

 

文武に秀でた乃木青年

乃木希典将軍は嘉永二年十一月十一日、長州藩士乃木希次の子供として江戸麻布・日ヶ窪の藩邸で生まれている。幼年時代は身体(からだ)が非常に弱かったので親は色々と苦労し、十歳の時父に従って長門の豊浦に移住し、十一歳の時に武家礼法弓長故実を修め、十三歳の時には人見流馬術と日置流の弓術を学び、また兵書を研究し、十四歳の時に宝蔵院流の槍術と、田宮流の剣術を習い、幸いにして健康な身体になり、十五歳で藩の集童場で断然頭角を現し、先生方からも大層可愛がられ、同輩からは崇拝されるような人間になり、十六歳の時に例の松下村塾に入った。

この時の塾は吉田松陰でなく、乃木家の親戚でもある玉木文之進が設けたもので、文之進は松陰の叔父であり、玉木家は乃木家の分家ということになるので、乃木希典と吉田松陰と玉木文之進の師弟の三人は血で結ばれた固い間柄である。

明治二年になって希典は藩命によって伏見練兵場へ入営し、佛国式(フランスしき)の兵術の練習をし、年と共に階級も段々に上がり、明治四年十一月には上京して陸軍少佐に任命された。希典が二十三歳の時であった。明治九年には熊本鎮台歩兵第十四聯隊の聯隊長になり、秋月の乱とか鹿児島県民の暴動を鎮圧している。

乃木さんは軍人と言ってしまうには申し訳ない程の文人として高い教養を持っている人である。その乃木さんが明治十九年にはヨーロッパヘ遊学させてもらっている。同十九年十一月三十日に日本を発って欧州をまわり、在学一年半も独逸で研究をし、海軍をイギリスで、陸軍をフランスでと、日本の軍学の基礎を作り上げている。

今でこそ日本の学問も世界的になっているが、当時は哲学もドイツ、化学も医学も芸術もドイツといわれ、世界で最高の頭脳を持っているのはドイツ人であると言われた時代であり、乃木さんの頭脳と魂の中にドイツ魂で教育されたことは実にすばらしいことである。

日本は明治二十七年には日清戦争が起こり、軍人である乃木さんは歩兵第一旅団長として各地へ転戦し、海戦、陸戦共に日本の勝利に終わり、その結果、膨湖島が日本の領土となったのである。

乃木さんが若く、元気な軍人として頑張っておられた時代の詩の一篇を紹介する。

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<訳>高い楼に登って酒を飲みながら大きな声で詩を吟じ合った。大いに気炎を上げて英雄など何者ぞと叫び、興いよいよ盛んになった時、月が顔を出し広々とした海上にキラキラと黄金の波が砕け散っている。

 

西南戦争 田原坂の激戦

明治十年二月十五日、西郷隆盛の最大の痛恨事、西南戦争がはじまり、一万五千の薩南の健児が西郷を総帥にして北上してきたのである。この時乃木将軍は第十四聯隊長として、熊本鎮台司令長官谷干城少将の配下で山鹿方面にあり、熊本城は薩軍の抜刀隊に包囲されてしまっていたので、第十四聯隊が熊本城へ入るのにはどうしても強く訓練されている薩軍の囲みを破らなければならない。そこで有名な田原坂の激戦が行われるのである。

西南戦争に従軍されている時の作として

 

 

 

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