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海外への脱走

 

船長ニハラー氏は襄に全幅の信頼と涙ぐましい愛情を以って色々のことを教え導きながら、船は印度洋を過ぎ、喜望峰を廻り、大西洋を横断し、日本脱出より約一ヶ年で一八六五年(日本は慶応元年)七月二十日に北米のボストンに着くことが出来たのである。

此処において襄は支那語で書かれた聖書をはじめ、キリスト教に関する図書を買って航海中、閑を見てはキリスト教の勉強をし、ボストンではワイルドロバート号の船主であるアルフュスハーディー夫妻に信頼され、襄は慈父慈母にまさる夫妻に可愛がられ、九年の間十二分の学問をすることが出来、先ずフィリップスアカデェミで英語と自然科学、数学等の基礎学を、アマースト大学で歴史や実践倫理等を全部、意欲をもやして研究し、理学士の称号を得て卒業している。

特に在学中、ジュリユスエッチシーリー教授の薫陶を受け、その人格的感化を強く受け、又アンドヴァー神学校へ行きキリスト教神学を徹底的に研究しているのである。

新島襄という人は、元来武門の出で、武道的精神をキリスト教の愛でモディファイして磨き上げたものである。

 

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更に英、仏、独、露、スイスなどの国々へ学制調査教育視察の旅を十ヶ月かけて行うなど、世界中の教育の状況をつぶさに研究した成果が、日本の明治の教育制度制定の基礎になっているのである。

この人はアメリカで研究して、アメリカで偉いといわれる人間になろうというのではなく、あくまでも日本を世界の国々より劣った国でなく、立派な国こしようというのが生涯の念願であるので、一八七四年(明治七年)十月九日こ開かれた米国伝道協会第六十五回年次大会が盛大こ開かれ、そこで新島襄が十年間のアメリカに別れの演説をすることになり、襄は日本の教育のおくれていることと、大学を創立して日本同胞三千万の教育殿堂の必要性をのべたところ、満場の会衆三千人が感激して忽ち五〇〇〇ドルの寄附金が出来たのである。

やがてこの基本金がもとになり京都に同志社大学が設立されたのである。

 

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初期の同志社英学校

 

勿論直ちに大学が出来るのではなく、色々に苦心に苦心を重ね、私立学校を造るのには膨大な資金を集めなければならないので、新島襄は身を粉にして活躍をしている。先ず一八七五年(明治八年)に同志社を結成して同志社英語学校を、一八七七年(明治十年)に同志社女学校を設立し、一九八八年(明治二十一年)十一月“同志社大学設立の趣旨”を天下に発表し、智徳併行自治自立の国民造就を目的とした民間大学を開こうとするのである。然し襄は遊説の疲れからか、明治二十二年十二月二十七日、神奈川県大磯の旅館で病を得て病床に呷吟せねばならない有様になり、年も明けて正月になると病はだんだん重くなり、襄も再起不能を覚悟したのか、一月二十一日八重子夫人と小崎弘道、徳富猪一郎の三人を枕辺に呼んで遺言書を筆記させた。その中の五箇條は次の通りである。

(一) 同志社の前途は基督教の徳化、文学政治等の興隆学芸の進歩三者相伴い相待って行うべきこと。

(一) 同志社の教育の目的は神学、政治、文学、科学等に従事するにかかわらず皆精神活力あり、真誠の自由を愛し、以って邦家に盡す可き人物を養成するを務むべきこと。

(一) 社員たる者は生徒を鄭重に取り扱うべきこと。

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(一) 同志社は隆になるに従い、機械的に流るるの恐れあり、切にこれを戒慎すべきこと。

以上のような言葉を残して一月二十二日午後二時二十分、夫人及び多数の門人知友に囲まれて四十八年の生涯を閉じたのである。門下からは徳富猪一郎、海老名彈正、安部磯雄等の名士が出ている。この新島襄の最高傑作の漢詩は何と言っても“寒梅”の五言絶句である。

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<訳>庭先に一つの寒梅があって、その寒梅はほほえむかのように風や雪の苦しさ、つらさにもめげず咲きそめている。この梅は一番咲きとしての競ったり争ったりはしない。自然にあらゆる花の魁として謙虚な心で咲いているではないか。

 

 

 

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