新島襄は群馬県安中藩主板倉伊予守勝明の江戸神田一ツ橋の藩邸に於て、天保十四年正月十四日にそこの祐筆職新島民治の長男(順は五子)として生まれたのである。
襄が生まれた時、父の民治は殿様のお供でお城へ出掛けていたので、おじい様の弁治が“男か”“しめた”と叫んだのと、正月であるので注連縄(しめかざり)にちなんで「七五三太(しめた)」と名を付けられたと、近所の人々が面白おかしく噂をし、新島襄は妙な名前を子供の時につけられていたのである。
七五太の家では父がつとめの間に近所の子供に書道を教えていたから何時も大勢の人が出入りし、四人の姉達も漢学や書道を習っていたので七五太も自然に学問に親しむようになり、七歳の時には藩の学問所に入れてもらい、ぐんぐん力をつけて大きくなっていった。勿論七五太は学問だけでなく、絵画や撃術、乗馬など、武士としての一通りの修行をし、十四歳になった時藩主の勝明公より選抜されて蘭学を修め、十八歳になった時には幕府の海軍伝習所へ入って数学や機関学なども研究させてもらった。ちょうどその時アメリカの黒船に乗ったペルリが来航したので日本の泰平の夢は破られ、勤王、佐幕、開港、攘夷と世の中はさながら麻の如くに乱れ、人心は動揺した。この時七五太の襄は勤王の志が厚く、奮然と立って国の為に働こうとしたが、骨肉の絆は襄の自由を束縛して空しく長嘆懊悩(おうのう)するのみであった。そして、或る日、江戸湾に碇泊しているオランダの壮麗な軍艦を遠望し、それに比べ貧弱な日本の木造船を見てあまりにも違うのに慨然として、自らが日本の改革者となり、文明の先導者にならなければと、切歯扼腕するばかりであった。
この襄の日本青年としての情熱は決然として海外渡航の雄志を起させたのである。
元治元年(一八六四)大望をいだいて函館へ赴き、外国商館ポーター商会の福士宇之吉という館員の深い共鳴と、命がけの義侠と、大膽な幇助のおかげで同年六月十四日、敢て幕府大禁である鎖国令をおかして脱国の大冒険を企て、十一年前の吉田松蔭の轍をふむことなく、米国船ベルリン号に乗り込み、その船のオフィサー・ゼヴオリー氏のボーイにしてもらい、日本を後に乗り出し、先ずベルリン号は上海に向けて航行して行った。この時襄は二十二歳であった。